頼朝の死は、世を驚かせた。 なにしろ、つい昨日のように思われる上洛の日から、わずか四年後のことである。 「御年も、まだ、五十三と聞くに」 と、その死因には、都あたりでも、疑いを持つ者が少なくなかった。 が、それはそれとし、頼朝には、あの上洛中の百日余こそ、思えば、彼の生涯の中でも、得意の絶頂であったろう。 大仏殿の落慶式に臨み、政子や姫たちには都見物をさせ、朝廷とも往来したり、洛中は、曠世
の賑にぎ わいだった。平家の世盛りもおろかに見えた。かつての、平家一門などとちがい、その強大な武力と、武家幕府を背光はいこう
とした天下人のすがたには、草木もなびく威があった。 ── しかし、それからの頼朝は、というよりは、源家の衰運は、まるで、つるべ落しの秋の陽ひ
だった。 まず、あれほど、夫妻して可愛がっていた長女の大姫にも、翌々年、死なれてしまった。この姫と、木曾の人質の子との初恋は、たれ知らぬ者はない。その義高を、頼朝が殺したこともかくれはない 姫は、それからの十四年間
── どんな縁談も嫌って、死ぬ日まで、その初恋を抱いて病みとおした。だから、頼朝夫妻にすれば、こんなにも、親に苦労をかけ通して亡な
くなった子はあるまい。── また一面、身をもって、親の反省を強し
いてやまなかった、いたいたしい病身の子と、いえなくもない。 なにしろ、頼朝は、ひどく落胆した。政略のうえからも悲しんだ。というのは、この姫を、彼は、後鳥羽帝の後宮こうきゅう
へ、入内させる腹でいた。── 上洛のさい、伴って行ったのは、それの運動でもあったのである。 だが、その望みは、姫の死によらなくても、いずれは、不成功に終わったに違いない。 宮廷内には、大納言通親や丹後ノ局を中核とする次の陰謀が、いつの間にか育っていた。 ──
ある重大なという秘密裏ひみつり
の嫌疑けんぎ の下に、九条兼実は、職をやめさせられ、兼房は太政大臣を退き、嫡子左大臣良経は門を閉じ、兼実の弟の慈円じえん
もまた天台座主てんだいざす の位置をくだるなど、つまり関東方の勢力は、根底こんて
からくつがえされてしまったのである。 そのうえにも。 六波羅の一条いちじょう
能保よしやす という、頼朝の手足ともいうべき妹婿いもとむこ
も病没した。 もちろん、頼朝は、中央の、あらわな反幕府の兆ちょう
を、黙視しているものではない。 あらゆる対策は、講じていた。そしてまた、 「来年ともなれば、再度上洛して、儂み
みずから、一切を処理してみせる。その日には、次女の乙姫を連れて上がろうぞ」 と、下向した公卿へも、明言していた。 ところが、春も待たず、その年の暮、ちょっとした落馬が因もと
で、病床につき、正月十三日には、もう死期に会っていたのである。 |