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あの判官 ノ御舘みたち
があった丘の上。 当時の焼け材や古瓦ふるがわら
も、いつか雑草の下だった。だが、年古るほど、そこの跡を訪う者は絶えない。たれがともなく、石が積まれ、花などもよく供えられている。 葛西かさい
清重きよしげ の部下は、おりおり見まわりに来て、石を蹴崩けくず
す、香華こうげ なども、取り捨ててしまう。 だかまた、いつの間にか、もと通りになっていた。 どうしようもない土の心だ。で、平泉の奥州総奉行所でも、近年はもう放っておいた。ところが、 「あの丘に、寝小屋をむすんで、二十日ぢかくも、墓掃をしている男がある。もしや義経の遺臣ではあるまいか」 との部下の声に、 「そは聞き捨てならぬ。鎌倉への聞こえもあるぞ、捕えて来い」 と、清重も命じないではいられなかった。 やがて、捕われて来た武士を見ると、むかし清重も知っていた那須大八郎であった。 大八郎は、九州のことから、帰国後の心境などもつつまず、 「せめて、二十一日の間はと、むかし堀川でお仕えしていた気持で、侍座じざ
していたまでのことです」 と、すがすがしく答えた。 口には出さないが、内々では、清重の心も変わりはなかった。で、大八郎にしきりと、逗留とうりゅう
をすすめたが、 「いや、後日の禍わざわ
いでもおかけしては」 と、断って、すぐ立ち去った。 大八郎は、それきり、どこにも姿を見せていない。下野国烏山で、生涯しょうがい
を終わったとも、また別説には、泉州の某寺は彼の開墓とも言われている。 しかし、彼の出家説も、その寺名さえ、どうも、はっきりはしていない。むしろ、そうした臆測おくそく
を取るならば、やはり彼は、また、ある好機を得て、日向国椎葉の山中へ帰って行ったことと見るのが、いちばん自然に近いのではあるまいか。 なぜならば。 まもなく、頼朝は、他界したからである。 そして、幕府そのものも、自壊しはじめ、尼将軍政子の下に、その権力と遺産をあわせたものは、徐々に、いや設計どおりに、次代の北条一族の手へ、傾きかけていたからだ。 また当然、御家人間の反目、詐謀さぼう
、さまざまな葛藤かっとう も表面化し、たちまち、政令はゆるんでいたので、もし大八郎が、ふたたび椎葉へ帰ったとしても、彼が惧おそ
れていたそこに住む人びとの平和の上には、もう何も憂える要はなかったにちがいない。 ── 謂い
うならば、椎葉の平家と限らず、各地の、“深山みやま
平家へいけ ” も、すべて忙しい世間には、もう忘れられていた。まれに、里人の間で言われるにしても、それは、素朴な彼らが、恐怖と悲しみの中で夢のように見聞きした昨日のこととして、おぼつかない炉ろ
ばなしに、語り継がれていたに過ぎない。 |