〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/09/01 (月) 頼 朝 の 死 (一)

── あの判官ほうがん御舘みたち があった丘の上。
当時の焼け材や古瓦ふるがわら も、いつか雑草の下だった。だが、年古るほど、そこの跡を訪う者は絶えない。たれがともなく、石が積まれ、花などもよく供えられている。
葛西かさい 清重きよしげ の部下は、おりおり見まわりに来て、石を蹴崩けくず す、香華こうげ なども、取り捨ててしまう。
だかまた、いつの間にか、もと通りになっていた。
どうしようもない土の心だ。で、平泉の奥州総奉行所でも、近年はもう放っておいた。ところが、
「あの丘に、寝小屋をむすんで、二十日ぢかくも、墓掃をしている男がある。もしや義経の遺臣ではあるまいか」
との部下の声に、
「そは聞き捨てならぬ。鎌倉への聞こえもあるぞ、捕えて来い」
と、清重も命じないではいられなかった。
やがて、捕われて来た武士を見ると、むかし清重も知っていた那須大八郎であった。
大八郎は、九州のことから、帰国後の心境などもつつまず、
「せめて、二十一日の間はと、むかし堀川でお仕えしていた気持で、侍座じざ していたまでのことです」
と、すがすがしく答えた。
口には出さないが、内々では、清重の心も変わりはなかった。で、大八郎にしきりと、逗留とうりゅう をすすめたが、
「いや、後日のわざわ いでもおかけしては」
と、断って、すぐ立ち去った。
大八郎は、それきり、どこにも姿を見せていない。下野国烏山で、生涯しょうがい を終わったとも、また別説には、泉州の某寺は彼の開墓とも言われている。
しかし、彼の出家説も、その寺名さえ、どうも、はっきりはしていない。むしろ、そうした臆測おくそく を取るならば、やはり彼は、また、ある好機を得て、日向国椎葉の山中へ帰って行ったことと見るのが、いちばん自然に近いのではあるまいか。
なぜならば。
まもなく、頼朝は、他界したからである。
そして、幕府そのものも、自壊しはじめ、尼将軍政子の下に、その権力と遺産をあわせたものは、徐々に、いや設計どおりに、次代の北条一族の手へ、傾きかけていたからだ。
また当然、御家人間の反目、詐謀さぼう 、さまざまな葛藤かっとう も表面化し、たちまち、政令はゆるんでいたので、もし大八郎が、ふたたび椎葉へ帰ったとしても、彼がおそ れていたそこに住む人びとの平和の上には、もう何も憂える要はなかったにちがいない。
── うならば、椎葉の平家と限らず、各地の、“深山みやま 平家へいけ ” も、すべて忙しい世間には、もう忘れられていた。まれに、里人の間で言われるにしても、それは、素朴な彼らが、恐怖と悲しみの中で夢のように見聞きした昨日のこととして、おぼつかない ばなしに、語り継がれていたに過ぎない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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