〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/09/01 (月) かさ ら ぬ (五)

「どうです、お母さん。たまにはですよ ── 」
と、婿の安成が、説法するような口吻くちぶり で、すすめるのだった。
「家事も大切でしょうが、こんな晩春のよい日和ひより を、土龍もぐら みたいにしていることはないでしょう。あす、お弁当でもこしらえて、わたくしたちと御一緒に、出かけませんか。損ですよ、あなたのような御一生は」
「どこへです。出かけるって」
「たいへんな人出でしょうが、あす、将軍家のみだい所、若君、御息女方ごしょくじょがたなどが、おそろいで六波羅をお出ましになり、鳥羽とば からは御船で、摂津の四天王寺へおんもう でになるそうです。── なんでも、お召船めしぶね は、丹後ノお局の御所有をお貸し遊ばした物とかで、それだけでも、見物に行くねうちはある。おそらく、平家全盛の時にもまさる御供やら何やらの立派さだろうと、町ではもう今日からそのうわさで」
「だめ、しかられますよ、そんな物を、見に行きたいなどと言ったら」
「だから、わたくしたち夫婦で、お父さまへお願いしようと、申し合わせて来たのですが」
かないでも、良人のお叱言こごと は、分かってますよ。・・・・まだまだ、泰平に見えても、世間には、食べられない人たちもたくさんいる。どこの隣近所も、みな楽しげに暮せるような日が来たら行け、といいます」
「そんなことを言ったって、この世の中に、たれ一人も困らないなんていう世の中は、百年待っても、来るはずはありませんよ」
「そういうんだけれど、あの良人ひと はにはだめです。それで、おまえは、自分一人楽しめるのかと、いうだけですから」
「おしかりを覚悟で、わたくしから今日は、お願いしてみましょう。いくらなんだって、これじゃあ、お母さんがお気の毒だ。そのうちに腰が曲がってしまう」
「もう曲がりかけてますよ。あの良人ひと の髪だって、真っ白だもの」
「── 御書斎ですか、今日は」
「いいえ、今日は、検非違使けびいし へお勤めの、なんとかいうお方の御母堂を に行きました」
「なあんだ・・・・。お留守なら、気がねなしに、もっと、大きな声で、おやじの悪口を言ってもよかったんだよ。なァまどか 、はははは」
と、婿は急に、大声で笑い出した。
すると、薬研やげん 部屋べや の弟子わらべ が、玄関へ出て行く気配がした。まもなく三人の所へ来て 「── お客さまですが」 と、告げた。婿の安成が立って行き、そこへたたず んでいた者へ、
「どなたですか、いずれからお越しで?」
と、愛想もなくたず ねた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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