〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/09/01 (月) かさ ら ぬ (六)

藺笠いがさ らず、客は、式台の外に立ったままでいる。背がすぐれているだけに、服装の貧しさがよけい目につく。草鞋わらじ ばき、肩から懸けた旅包み、あか くさい旅武者たるは、問わずとも、分かっていた。
「おあるじは、おいでであろうか、麻鳥どのに、お会い申したいが」
「あいにく、不在でございますが」
「いつお戻りかな」
「さ。・・・・そのほどは」
「夜は、御在宅か」
「と思いますが」
「・・・・では」 と考え込んで 「それでは、また、おりを見て、お訪ねいたそう」
案外だった。物乞いや強請ゆすり でもなおく、すっと、帰りかける様子に、安成はかえって、あわてて、
「あっ、もし。御尊名は」
「いや、お目にかかれば分かります」
「でも、後で帰宅のさい、お訪ねの由を、申さいではなりませぬ。お名前も伺っておかぬことには」
「さとう・・・・。では、お帰りあったら、こうお告げ下さい」 と、旅武者は、ふた足三足、式台の内へ近づいて来て、何か、人の耳でもはばかるように、
「はやお忘れかも知れぬが、むかし少々の御縁もありし、那須大八郎なる者が、お門辺かどべ まで、立ち寄りましたと」
「那須大八郎どのと仰っしゃいますか」
「ふとしたら、もいちど、お訪ねするかも知れず、都合では、このまま、お別れ申すやもしれませぬ」
そよ風のようだ。物静かに、露地のはな もこぼさずに、小門の外へ消えて行った。
あとでよもぎ が、
「あ、そのお人なら」
と、若夫婦へ、思い当たった顔を見せたが、もう追いつかない。
それから、またしゃべりあって、ようやく、夜食の支度などに、かかり出していると、麻鳥が戻って来た。晩のぜん をともに、安成は、蓬のために、あした一日の暇をと、しゅうと のきげんをうかがっていた。けれど、麻鳥の容子ようす は、どうも変だった。── 単に浮かぬ色ばかりでなく、家の内を見まわして、
「どうやら、やっとわしも、施薬院の職を めるこtが出来そうだよ。・・・・だが、わしの蔵書、この家財、みな売り払うて、どれくらいな金になろうかの」
と、言ったりする。
蓬は、若夫婦を、気の毒がって、
「せっかく、遊びに来ているのに、あなたは、なんてつまらないことばかりを」
と、話を らした。で麻鳥も、一時は黙ったが、時たつとまた、あらたまって、こう言い出した。
「ほんとに、きょう もない顔を見せて、すまないなあ。だが、麻丸のことでなあ。・・・・ほら幼少から家出した麻丸さ。どうにもならぬことが起こった。それで、申しわけないが、蓬も当分、婿に家にでもいてくれぬか。── わしはこの家をたたんで、ちと遠国まで行かねばならぬ。さてさて、おまえたちにも、とんだ相談だが」
「・・・・・・?」
蓬も、若夫婦も、ちんと、沈んでしまったままである。ただ何十年も連れ添って来た妻の無言は 「── そら、また始まった」 と、見ているのであって、あきれる張り合いもんまい顔だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ