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御発病は、その前年の十二月からで、御不食のうえ、下痢も加わり、侍医たちの薬治もむなしく、日をふるに従い、異様な御腹態
に変わって来られた。九条兼実の日記だと “── 御腹ノ脹満チヤウマン
、殆ド、当月ノ妊みごもり ノ如シ”
とみえ、また、御高熱のせいか “── 崇徳ストク
、安コノ両怨霊ヲンリヤウ ヲ鎮謝ス”
とあり、おん囈言うわごと なども、ままもれ伺われたものらしい。 およそ四箇月も、この御容態はつづいた。 天下に、大赦たいしゃ
が布かれた。 崇徳すとく
上皇の御陵みささぎ の辺に、一堂を建て、また、安徳天皇のためにも、長門壇ノ浦に、供養寺が建てられるべし、と令せられた。 加持かじ
祈祷きとう 、いうまでもない。 灸点きゅうてん
もすえられた。巫女みこ の一言までが、御病殿ごびょうでん
を繞めぐ る百官をうごかした。 ──
が、ついに、三月十三日寅とら
ノ刻こく 、法皇万歳 (崩御)
の喪も となった。 しかも、こうした期間にさえ、日ごろ、鎌倉びいきとされている九条兼実は、とかく、おん枕辺の人びとから、疎外そがい
されがちだった。── たれかといえば、法皇の寵妃ちょうき
丹後ノ局、高倉帝の乳母範子のりこ
の夫大納言通親みちちか などの一派であった。 麻鳥も、御病殿では、否みようもなく、それらのものを感じた。で、後日となるや、 「ああ、変わっていない・・・・」 ひとり、つくづく嘆じて、 「わしが、朝廷の伶人れいじん
を辞め、柳ノ水の水守みずもり
となったころや、崇徳すとく の君が、讃岐さぬき
でみまかられたあのころとも・・・・ちっとも、殿上は、変わっていない。こうして、御召しの役もすんだうえは」 と、その後さっそく、施薬院の公職を返上したいと、願い出ていた。 けれど、それは、なななか免ゆる
されない。そのうちに、施薬院の医生安成へ、円まどか
を嫁にやる話が実現されたり、のっぴきならぬ医務雑命もつぎつぎに負お
わされて、心ならずも、つい壬生みぶ
に住みつづけて来たのだった。── だから、家にいれば、その不きげんやらしこりを、つい、老妻 ── かの女ももう五十をこえているのに ── とは、察しながらも、蓬よもぎ
へ、当るわけになる。 「・・・・どうなんでしょう。いったい、お父とう
さまとお母かあ さんの仲というのは。性しょう
が合わないのやら、合いすぎているのやら」 円まどか
は、良人の安成へ、うわ調子に、 「わたしたちには、分からないでしょう。ほんとに、老夫婦のいい草なんて、どっちを聞いたって分かりはしない。そうそう今日は・・・・。ねえ、あのこと、あなたから、おすすめしてみませんか」 と甘え声で、安成へもたれるような姿態しな
で言った。 ことしの初秋には、円まどか
も初めてのお産をしよう。そして麻鳥と蓬の両親を、やがて 「おじいちゃま」 「おなあちゃま」 と、呼ばせる体になっていた。その大きなお腹なか
が人前もなく甘えたり、また男も愛いと
しがる様子を見て、蓬は、遠く過ぎた日の自分を、眸の奥でひとりショボショボえがいていた。 |