〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/31 (日) かさ ら ぬ (三)

「あら、お母さまはまた・・・・。もう、もう、そんな水仕事やらお掃除などは、小婢こおんな にでも、おさせになって、おけばよいのに」
壬生みぶ の片ほとり、近所もみな、一つ一つの小門構えや柴垣しばがき をもっている。麻鳥夫婦が、ここの小邸こやしき へ住んだのは、おととしごろからで、今では、弟子童でしわらべおんな なども三、四名はおいていた。
「まあ、まどか安成やすなり どのもご一緒にか。さあさあ、お上がり・・・・。幾歳いくつ になっても、わたしの性分しょうぶん で、こうなんだね。朝から晩まで、何かくるくる働いていないと、気がすまない」
「ほほほほ。お母さんてば、そのくせ、牛飼町のころでも広沢の小屋でも、いつになったら、楽が出来るのかって、のべつお父さまに、愚痴タダダラだったくせに」
「それがね、こんな小邸にでも、住んでみればみるで、施薬院のお人も来るし、いつきあいも る。また良人うち のひとの性分で、貧乏人の世話を探し歩いているみたいだし・・・・。そして、わたしにばかり、むずかしい顔してさ。楽など、させてくれるどころかね。おまえ」
かの女は、手をふいたり汚い腰巾こしぎぬ ったりして、とつ いだまどか と、婿の安成を、上へあげた。良人おっと の書斎とは渡り縁をへだてた清酒な母屋おもや で、弟子部屋には薬研やげんや で薬を刻む音がしていた。
こんな家へ、麻鳥がつい住むようになったのも、後白河の御病気から ── と言えなくもない。もとより、宮中の侍医、都下の国手こくしゅ が拝診のうえ、手をつくしていたこと言うまでもないが、いよいよ重らせ給うばかりと見られ、麻鳥を推挙する公卿が二、三あった。九条兼実も 「それ、よからん」 と同意した。けれど、殿上へ招きたいにも、一庶民麻鳥では、資格がない。で、彼を いて、むりに藤氏とうし 私設の施薬院の一員に加え、法皇のおん脈をとらせたのである。壬生みぶ の住居も、そのさいに、しいて移させたのだった。
しかし、拝診はしたが、そのおり、麻鳥は、
「すでに、おん手おくれかと拝し奉ります。百のもの九十までは」
と、九条殿へも、法皇の寵妃ちょうき 、丹後ノ局栄子へも、申し上げたことだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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