〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/31 (日) かさ ら ぬ (二)

── だから、としてはちと牽強けんきょう 府会ふかい になるが、勧進大上人の重源は、この盛儀後まもなく 「── なぜか、逐電された」 と、世にうわさされた。
将軍家の慰撫いぶ の旨をふくんで、さきの 掃部頭かもんのかみ 親能が、たびたび高野山へ使いに赴いたので、 「上人は、高野の奥においでらしい」 と分かったが、なぜはその理由は、たれにも不明であった。何か、幕府への、無抵抗の抵抗とは察しられたが ──。
このほか、洛内では、関東御家人同士の、大喧嘩小喧嘩も、一再でなかった。
なにしろ、滞在日数が長い。
「鎌倉へのお帰りは、六月末か、七月ごろか」
と、言われている。のう のない将士は む。
頼朝は、その間、ろくrokuh六波羅邸にいた。
なお百日以上も、滞京を予定しているのは、もちろん、懸案の政治目的も、いろいろあるにちがいない。ふぁが、多くは遊覧の意味だった。
── といえるのは、こんどの上洛には、みだい所政子、嫡子の頼家、長女の大姫、次女の乙姫までともな って来たからである。都を知らぬ者たちに、洛中洛外の社寺、名所、風俗などをゆるゆる見物させようということと、また内々には、大姫か乙姫かを、宮中へ入れる画策の下心などもあるらしい。
もっとも、頼朝の息女が、入内じゅだい するかも知れぬという予想は、たれにも抱かれていた。下地したじ らしい運動はいま始まったことではない。だが、鎌倉の存在そもののまでを、極力排撃しようとする依然たる公卿結社は、顔ぶれこそ変わっても、少しも衰えていなかった。いや、このさいはまだ、ひっそりしていたが、暗々裡あんあんり に根を張っていたのである。
それを、用心深い頼朝も、気づいていない。
逆に 「── 今は、院も世におわさず、帝もまだ御十六」 と、従来の朝廷よりも、くみ しやすそと ていたのではあるまいか。
つい、書くおりもなかったので、ここ で明記するならば。
── 先おととし建久三年、後白河法皇は、おんよわい 六十六をもって、すでに崩御みまか られていたのである。
かつては、雲上の龍座りゅうざ に、清盛の虎威こい をも抑え、頼朝すらも、おそ れしめたその法皇も、御病には勝てず、はや世においでなかったのだ。
だからこそ、頼朝家族の上洛見物も、用心のかさ も持たずに外出のできる花曇の好日というものであったろう。また、政治画策のうえにも、これが、彼にとって、上々な晴天の告げでなくてなんであろうか。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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