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だから、としてはちと牽強
府会ふかい になるが、勧進大上人の重源は、この盛儀後まもなく
「── なぜか、逐電された」 と、世にうわさされた。 将軍家の慰撫いぶ
の旨をふくんで、前さきの 掃部頭かもんのかみ
親能が、たびたび高野山へ使いに赴いたので、 「上人は、高野の奥においでらしい」 と分かったが、なぜはその理由は、たれにも不明であった。何か、幕府への、無抵抗の抵抗とは察しられたが
──。 このほか、洛内では、関東御家人同士の、大喧嘩小喧嘩も、一再でなかった。 なにしろ、滞在日数が長い。 「鎌倉へのお帰りは、六月末か、七月ごろか」 と、言われている。能のう
のない将士は倦う む。 頼朝は、その間、ろくrokuh六波羅邸にいた。 なお百日以上も、滞京を予定しているのは、もちろん、懸案の政治目的も、いろいろあるにちがいない。ふぁが、多くは遊覧の意味だった。 ──
といえるのは、こんどの上洛には、みだい所政子、嫡子の頼家、長女の大姫、次女の乙姫まで伴ともな
って来たからである。都を知らぬ者たちに、洛中洛外の社寺、名所、風俗などをゆるゆる見物させようということと、また内々には、大姫か乙姫かを、宮中へ入れる画策の下心などもあるらしい。 もっとも、頼朝の息女が、入内じゅだい
するかも知れぬという予想は、たれにも抱かれていた。下地したじ
らしい運動はいま始まったことではない。だが、鎌倉の存在そもののまでを、極力排撃しようとする依然たる公卿結社は、顔ぶれこそ変わっても、少しも衰えていなかった。いや、このさいはまだ、ひっそりしていたが、暗々裡あんあんり
に根を張っていたのである。 それを、用心深い頼朝も、気づいていない。 逆に 「── 今は、院も世におわさず、帝もまだ御十六」 と、従来の朝廷よりも、与くみ
しやすそと観み ていたのではあるまいか。 つい、書くおりもなかったので、茲ここ
で明記するならば。 ── 先おととし建久三年、後白河法皇は、おん齢よわい
六十六をもって、すでに崩御みまか
られていたのである。 かつては、雲上の龍座りゅうざ
に、清盛の虎威こい をも抑え、頼朝すらも、畏おそ
れしめたその法皇も、御病には勝てず、はや世においでなかったのだ。 だからこそ、頼朝家族の上洛見物も、用心の傘かさ
も持たずに外出のできる花曇の好日というものであったろう。また、政治画策のうえにも、これが、彼にとって、上々な晴天の告げでなくてなんであろうか。 |