翌々年、建久六年の都は、近年にない東西両市
の活況だった。貴顕きけん の馬車やら人出やら、毎日の大路小路が、花の都塵とじん
を織っていた。 もう戦争はありえない。どんなやつも、こんどこそ、この泰平を大切にして狂わせはしまい。── そうした庶民願望の、開花かいか
斉放せいほう とも見られようか。 だが、具象的には、別な理由もある。 三月、征夷大将軍頼朝の上洛があった。 彼の初上洛は、建久元年に行われており、今度は二回目であった。 公表によると、こんどの主旨は、 ──
東大寺大仏殿の落慶式らっけいしき
へ臨むために。 と、いうにある。 天皇 (後鳥羽ごとば
) も当日は、行幸みゆき
あらせ給うという。 季節も、万朶ばんだ
の花の頃だ。これの盛事はことばに絶えよう。── 畠山はたけやま
重忠しげただ の前陣、和田わだ
義盛よしもり の随兵奉行、梶原盛かじわら
景時かげとき の後陣。そして、車副くるまぞえ
には、小山五郎宗政が御剣ぎょけん
を持ち。佐々木ささき 中務丞なかつかさのじょうはおん甲かぶと
を、愛甲三郎は御調度ごちょうど
を ── と歴々の供もみな装いを飾りたてて ── 南都へ大兵が入ったのである。京も奈良も、見物人で足の踏み場もなかったと記録にあるのも誇大ではあるまい。 式当日の十二日は、春雨としては強すぎる雨が降りけぶり、傲慢ごうまん
な鎌倉武者と僧侶そうりょ 側との間に、感情上の喧嘩けんか
があったり、また、小さい地震などもあった。しかし、天皇、将軍家、公卿、武将ら一千人、僧侶一千人という国家的大供養は、つつがなく終わったので、 「きょうの風雨は、天地万物のよろこびを、神もともにし給える奇瑞きずい
というもの」 と、公卿も言いはやし、武将も言った。 まことに、金色こんじき
さんらんな大盧遮那仏だいるしゃなぶつは、その日の雨で、一そう、肌の潤うるお
いを深め、荘厳を神々こうごう
しくしていたが、しかし、思えば、戦乱中の長年にわたり、重源上人以下、勧進の徒が、諸国を歩いて、貧しい最下層の隅々すみずみ
の男女からも、一と束つか の稲やら、一紙半銭といった零細な物までを、これに寄せて建立を扶たす
け、今日の成就じょうじゅ をみたものだった。 公卿も武将も、神の奇瑞」をいいはやしたが、それらのここに見えない素朴な祈りは、どう分かっていたろうか。 らて一人、そのことを言わず、深くも思わなかったのは、人の世のために、恨みでもあった。平和の大悲願像に、千万両の黄金を塗布しながら、その仏心に誓うて鋳込いこ
むべき億衆の希ねが いを忘れていたことではないか。──
雨は奇瑞ではなかった。まだ脱ぬ
けられない人間の業苦ごうく 、以後もつづいた戦乱の繰り返しなど、凶兆きょうちょう
この日に見えたり、とすべきであった。 |