〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/28 (木) よし つね さい (一)

持仏堂には、朝夕の香華こうげ も絶えたことがない。母の常盤ときわ 、父義朝のまつりはいうまでもないこと。義経が年来、心に忘れ得ぬ幾多の郎党や有縁うえん などの、亡き人たちがまつ られていた。
中にはつい二ヶ月ほど前に、能登の配所で病死した平大納言時忠の霊位もおかれてあった。
── そのかず のうちへ。
義経自身も、今し、自ら入ろうとする。
しかし、そこへの、死の橋を、渡りかけたとき、さすが、三十一年の生涯が、振り返られた。
また、、今日まで、苦楽を供に ── いや楽しみは少なく、辛酸のみを多く めさせた者たちへも、もう一語、何か、 びたい気がした。日ごろに、それは尽くしていたが、相見るだけでも、もうひと目と、ふと思った。
「おお」
そこへ来て、一様にひざまずいた郎党たちは、平静なこと、水のような義経を見ただけで、何も言えなくなっていた。日ごろの主君の言が、しん であったことを、今さらのように、荒肝あらぎも にこたえ、その悲しみの日は、
「いま来たか」
と、歯をくいしばるばかりだった。
義経はそこで最後の別れをみなへ告げた。── 自分こそは、勅勘ちょっかん の身であり、鎌倉どのの追捕者ついぶしゃ であるが、おこと たちには、なんら責めるもあるわけはない。
義経だに、世を終われば、必然、追捕のお沙汰も止もう。諸所、いずこへなと、身をかくして、農土に生きるなり、またよいあるじ を求めるなりして、生をまつと うするがいい。ゆめ、義経にじゅん じるな。今日まで、おこと たちが尽くしてくれた真情は、不肖なあるじ には、しあわ せ過ぎるほどだった。このうえに、死をともになどと早まってくれるな。
生きてゆけば、おこと らのうえにも、自然、なすべき使命が生じて来るだろう。だが、復讐ふくしゅう瞋恚しんい だけは、燃やすなよ。結果は、ごう輪廻りんね と、血の歯車を、地上に繰り返すに過ぎぬ。保元、平治、それ以後も続いて来た、人と人との殺しあい、憎しみあい、あれを振り返れば、その愚がわかる。
なお、こうなっても、義経は兄をつれなくこそ思え、おうら みしてはいないのだ。もし、骨髄からおうら みするなら、兄夫妻が、あのような奸策かんさく のもとに、むりにわしへ押しつけた百合野を、今日このごろのごとく、妻として、ゆるしはしない。どう愛そうにも、心から愛せるものではない。
それをすらわしは必死な気持で乗り越えた。一人を幸福にしたい気持も、人すべての幸福を願う祈りも、おなじ善意につながってこそ世に平和は成就じょうじゅ されるものと信じるからだ。まして、これから先。おこと たちが、旧主の怨みをはらさんなどという考えを起こしたら、義経の最期さいご は、無残、犬死となるだろう。魂魄は宙に迷うぞ。── 末始終、義経が世へ祈るところを、おこと らもまた、祈りとして生きてくれい。そして安穏な生涯を終わってくれい。
「それだけぞ、最後の頼みは」
義経は、じっと、深い目を一同へそそいで、
「さらば」
と、言った。
けれど依然動きもしない嗚咽おえつ の影のかたまりを見て、
「さ。早く落ちて行け。義経は、それを見とどけて、安堵あんど したい。立て、立て、いざ落ちろ」
と、せきたてた。
けれど、たれ一人、立つ者はない。声もない。すると。もう当然な敵の接撃だった。
ばらばらっと矢が来た後、むらがり せた真っ黒な敵が、わっと、友軍を呼びあった。そして中の気負い武者幾人かは、長柄を振るって躍りかかった。
立ち向かって、弁慶たちが、それを ぎ払うすきに、義経は身をひるがえ して、持仏堂の内へ走りこんだ。
「あな」
と、伊勢三郎が、追っかけた。
「殿っ」
「殿」
弁慶も、敵をすてて、駆け寄った。鷲ノ尾、亀井、ほかの者も、みな堂の外に、足ずりして、むらがった。しかし、内からかぎ を差したものか、押せど、たたけど、とびら は開かない。
そしてたちまち、真っ赤な閃光せんこう が、内から した。どこからもれるともない鮮麗な火の線である。黒い濃煙もぷすぷす噴き出して来る。一切を焼くほのお の音が、ごうごうと内で鳴るのも聞かれ出した。
すぐ、そこは人を寄せつけない大紅蓮だいぐれん と化した。熱風はそれをめぐ り、刻々に大きく拡がる。なだれを打って下った敵味方の小さい人影も見えなくなるほど、煙のかさ がおおい、さらに火のちり が追いかぶさった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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