〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/27 (水) あだゆみ (三)

もう敵の矢は、身近までとどいて来る。おばしま や板戸にも突き刺さった。しかし彼の弓は一矢いっし も敵へ射返してはいない。敵とおぼしき人影が、矢ごろの内へ入って来ても、見逃していた。
かつて彼は、自分へ誓った。
名利のために弓は引かぬと。また、義経の弓は、諸民の守りのためのみとも、家来へ言った。あくまで、兄との戦いは避けて来た弓でもあった。── そして、今はと、自分の死期しご を甘受した彼でもある。よし自分をおと し入れた泰衡にせよ、恩義のある故秀衡どのの子と思えば、あわ れやと、さげすみは覚えても、腹から憤る気にはなれなかった。まして、名もない兵の五人や十人、 ころ したとて、なんになろう、無用な殺生せっしょう 、そう思って、見ていたものか。
やがて、彼は、
「鷲ノ尾、鷲ノ尾」
と、呼びたてていた。
鷲ノ尾は見えず、伊勢三郎が、
「伊勢。これのおりまする」
と、廊の端に、ひざをついた。
「伊勢か」
と、びん の毛を手でかい でて、
「もう、ひと支えしていてくれよ。そして、ころを見て、みなへ告げわたせ。思い思いに、いずこへなと、落ちて行けよと」
「殿には」
「妻も待つらん。子も待つらん。持仏堂へ入って、心しずかに、生害しょうがい をともにする所存」
「やっ、御生害とな」
「── 伊勢、名残惜しいなあ。しかし、短くはあれ、義経は、思うざま生きたぞ、おこと らには、 いないあるじ ではあったが」
「おっ、お待ちくださいっ」
伊勢は、まろび寄って、しがみついた。
「すれや御短気と申すもの。なんとか、一方の敵を斬りひらき、ともに、お落とし参らせんと、申し合わせておりますものを」
「止めるな。時が来ただけのものだ。源九郎義経、あえない死にざまにはさら しとうない。妻子を連れて」
「な、なんの、わしらもおりまするに」
「生きたいは、人間の尽きぬ思い。したが、生きても、限りある命。義経が世になすべきことは終わったと思う。今は、母者ははじゃ のおひざが恋しい。母者がわしを招いておられる。行かせてくれい」
振り払われた伊勢は、高欄こうらん から、下をのぞいて、
「弁慶っ、弁慶っ」
呼びつつ、駆けまわりながら、
「片岡っ。亀井、鷲ノ尾、鈴木もまいれっ。殿には、御生害のお覚悟とみえるぞ。はやく来い」
と、ほかへも、怒鳴って行った。
鈴木重家、片岡、弁慶、鷲ノ尾などの十数名は、戦も捨てて、
「なにっ、御生害?」
と、小館こやかた の内へ、どっと駆け込んできた。そして、声もおろおろ、
「殿は」
「どこに」
と、伊勢の走るあとにつづいて、彼らも奥へ駆け行った
廊のはてに、また、長い渡りが見える。持仏堂は、棟を離れたそこから先に独立していた。── その渡りの橋をうしろに、義経らしい影が、彼らを待つかのように、たたず んでいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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