もう敵の矢は、身近までとどいて来る。欄
や板戸にも突き刺さった。しかし彼の弓は一矢いっし
も敵へ射返してはいない。敵とおぼしき人影が、矢ごろの内へ入って来ても、見逃していた。 かつて彼は、自分へ誓った。 名利のために弓は引かぬと。また、義経の弓は、諸民の守りのためのみとも、家来へ言った。あくまで、兄との戦いは避けて来た弓でもあった。──
そして、今はと、自分の死期しご
を甘受した彼でもある。よし自分を陥おと
し入れた泰衡にせよ、恩義のある故秀衡どのの子と思えば、憐あわ
れやと、さげすみは覚えても、腹から憤る気にはなれなかった。まして、名もない兵の五人や十人、射い
殺ころ したとて、なんになろう、無用な殺生せっしょう
、そう思って、見ていたものか。 やがて、彼は、 「鷲ノ尾、鷲ノ尾」 と、呼びたてていた。 鷲ノ尾は見えず、伊勢三郎が、 「伊勢。これのおりまする」 と、廊の端に、ひざをついた。 「伊勢か」 と、鬢びん
の毛を手でかい撫な でて、 「もう、ひと支えしていてくれよ。そして、ころを見て、みなへ告げわたせ。思い思いに、いずこへなと、落ちて行けよと」 「殿には」 「妻も待つらん。子も待つらん。持仏堂へ入って、心しずかに、生害しょうがい
をともにする所存」 「やっ、御生害とな」 「── 伊勢、名残惜しいなあ。しかし、短くはあれ、義経は、思うざま生きたぞ、お汝こと
らには、効か いない主あるじ
ではあったが」 「おっ、お待ちくださいっ」 伊勢は、まろび寄って、しがみついた。 「すれや御短気と申すもの。なんとか、一方の敵を斬りひらき、ともに、お落とし参らせんと、申し合わせておりますものを」 「止めるな。時が来ただけのものだ。源九郎義経、あえない死にざまには曝さら
しとうない。妻子を連れて」 「な、なんの、わしらもおりまするに」 「生きたいは、人間の尽きぬ思い。したが、生きても、限りある命。義経が世になすべきことは終わったと思う。今は、母者ははじゃ
のおひざが恋しい。母者がわしを招いておられる。行かせてくれい」 振り払われた伊勢は、高欄こうらん
から、下をのぞいて、 「弁慶っ、弁慶っ」 呼びつつ、駆けまわりながら、 「片岡っ。亀井、鷲ノ尾、鈴木もまいれっ。殿には、御生害のお覚悟とみえるぞ。はやく来い」 と、ほかへも、怒鳴って行った。 鈴木重家、片岡、弁慶、鷲ノ尾などの十数名は、戦も捨てて、 「なにっ、御生害?」 と、小館こやかた
の内へ、どっと駆け込んできた。そして、声もおろおろ、 「殿は」 「どこに」 と、伊勢の走るあとにつづいて、彼らも奥へ駆け行った 廊のはてに、また、長い渡りが見える。持仏堂は、棟を離れたそこから先に独立していた。──
その渡りの橋をうしろに、義経らしい影が、彼らを待つかのように、佇たたず
んでいた。 |