衣川の館は、こんもりと木の多い、丘の上にあった。
日ごろ。里人たちはそこを “高館
” とも “判官ノ御館みだち
” とも呼んでいた。 地勢的には、中尊寺を繞めぐ
る低山群の、いわば離れ小山の一つである。中尊寺堂塔からも、また、平泉の中心をなす伽羅御所きゃらのごしょ
からも、ともにものの十町とは離れていない。 そして当時も、丘の下は、北上川の流れに接し、東南方の断き
り岸ぎし は、淙々そうそう
の水に洗われていたかと思われる。 山上の館門やかたもん
のほか、ふもとにも一門があって、随身ずいじん
たちの小屋敷二、三十戸がその辺に一郭いっかく
の侍長屋をなしていた。そして朝々、彼らは山上のお館へ通い、晩には、宿直とのい
のほかは皆、ふもとの家へ退出して来た。── それほど、上の地域はせまく、建物も、いかめしからぬ小館こやかた
だった。 「や、や、ただ事とは思えぬぞ」 当夜の変を、逸早く感づいたのは、もちろんふもとの面々だった。板戸の鳴る音、物具もののぐ
を着込むひびき、戸外には 「── 出合えっ、出合い給え」 と、のども裂けそうな叫びがつづく。 夜討ちとは、すぐ知れた。また敵は、恃たの
む伽羅御所きゃらのごしょ のお人の寝返りぞ、ともみな罵ののし
った。 だ、どの方面から、どれほどな軍勢が来るのかは、見当もつかない。ただやみを縮めて来つつある駒音の潮が、いよいよ、間近いことは、確かだった。
「やあ、一人はここを脱ぬ けて、御館みたち
の方へ、事の急をお告げ申せ、泰衡やすひら
どのの裏切りたるは必定、お固めあれと」 だれかが怒鳴ったとき、鷲ノ尾と亀井六郎が駆け下りて来た。二人は大声を上げて、 「すでに山上でも、お抜かりはない。殿には、みだい所と、おいとけなき姫ぎみを、持仏堂へ移させ給うて、お身支度にかかられておる。弁慶や伊勢も、搦から
め手て や舘門たちもん
を固めておれば、案ずるな。ここの者どもは、ただふもとの木戸に拠よ
って敵に当れ。小勢の味方を、いたずらに諸所へ散らすな、との仰せなるぞ」 と、義経の命を逆にここへ伝えた。 声も終わらぬうちに、敵の矢はもう驟雨しゅうう
の烈しさを見せていた。小勢の場合、弓に対して弓を持つのは愚である。近々と寄せつけて、一が三にも五にも当るしか策はない。たちまち寂せき
として、木戸の人影がみな隠れたのはそのためであったろう。── それを、寄せ手は、まんまと虚きょ
を衝いて、夜討の功を見たものとしたらしい。真っ黒に、襲よ
せて来るやいな、 「首尾はよいぞ」 「木戸を破って駆け上がれ」 と、みな馬を捨てた。 そして徒歩かち
で山路へ取りつきかける。 当然、そこで凄惨せいさん
な死闘が起こった。 不意を食ったのは、不意をついて来たはずの泰衡勢の方だったのである。卍まんじ
となって、組む、斬りむすぶ、得物でなぐる。その咆哮ほうこう
だけが、敵か味方かを知る唯一ゆいつ
のたよりなのだ。暗さは、それほどだし、足場は狭く、崖がけ
か坂道、なだれを打てば、北上川の急流だった。 もちろん、これは泰衡の主力で、ほか幾支隊の兵が、道もない木の間、岩間を、八方から攀よ
じ登っていた。おめきは、ここだけのものではない。丘全体が震ゆ
れ、木々が呼び、人間はただ、その地表で狂気しているようにしか思われない。 まさに、義経の家臣にとれば、狂気もしたろう、鬼神にもなったであろう。彼らは、義経の心を心として、忍従一筋に、ただ、御主君さえ満足ならばと、胸をなでていた輩やから
である。だのに、その最小限の安住すらも、世は、容い
れようとしないのか。 このうえはと、人間の相すがた
も捨てて、鬼となったのはむりもない。ふもとの防ぎはたれだったのか。伊勢三郎や弁慶たちは、どこで阿修羅あしゅら
の働きをしていたか。 女童めわらべ
や下部しもべ を加えても六、七十名に過ぎない小館こだち
の主従である。そのうち、幾十名が立ち向かって戦う男か。 ── 泰衡方が、日ごろから、遺漏のない計はかり
を立てていたのはいうまでもあるまい。 一度は退いて、累々るいるい
の死体を捨てたが、彼らは、すぐ二の陣を繰り出した。無慮千に近い兵数である。いくら犠牲を出そうが、目標はただ小さい丘の一つ、またたく間に、その全面を、軍兵の影で埋めてしまったのは、当然だった。
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