加賀の守護、富樫泰家は、まだ四十がらみか。地方の守護としては、若い方である。 父家経、兄家直の跡をうけ、家督
をついでからも、まだ七、八年しかたっていない。 その間には、かの木曾上洛があった。彼は、義仲の軍に加わって平家を追い、ともに都へ出た。 が、まもなく、彼は郷里野々市へ帰って、引き籠ってしまった。木曾兵の暴状にあいそをつかしたのである。若い理想は、懐疑に落ちた。のみならず、木曾の荷担人かとうど
たるかどで、長い謹慎が門につづいた。 古い加賀の名族。 祖先は、禁裏きんり
の滝口たきぐち に候こう
し、鳥羽殿とばでん 建立建立こんりゅう
に功もあったりして、地方ではゆゆしい六位の介すけ
でもあった。その名門を、自分の代で、傷つけた自責などか、あるいは、木曾軍に従って、広い世の中の実態を見てからの懐疑の末だろうか。 「あれからは、お人が違いなされた」 と、周囲によく言われたりした泰家だった。そして、国では
「野々市では、まれに、唖おし
が物仰っしゃる」 とか、 「偽唖そらおし
が物をいうたら恐こわ い」 などという言葉すら行われた。それほどな、泰家は無口だった。 左衛門を兼ねて、加賀の守護に任ぜられたのは、つい去年の春である。 そのため、彼は、鎌倉の府へ、お礼に赴おもむ
いた。蔭で推挙の労をとってくれたという梶原景時の許へも、挨拶にまわった。 梶原の息子の景家かげいえ
たちに誘われて、一夜、安達新三郎の邸へ、遊びに立ち寄ったのも、そのおりのことである。しかし、 「つい。見まじきものを見た」 と、その夜の出来事は、後々まで、彼の後悔となっていた。 ちょうど、安達の邸には、義経の愛妾あいしょう
静しずか が、預けられており、景家の心は、その幽囚ゆうしゅう
中ちゅう の麗人を、酒興にして遊ぼうという魂胆こんたん
であったのだ。 泰家には到底、愉たの
しめる事ではなかった。そういうものを見て愉しめる人間の気が知れない。 不愉快だった。── という以上、その夜の、若い御家人どものざまに、彼は、ひそかな義憤をすら抱いた。 また、新幕府を支える若い層そのものにも失望した。以来、
「唖ならぬ富樫どの」 は、帰国後も、唖でない証拠ぐらいにしか、ものを言わない人で今日に到っている。けれど、領下はよく治まっていて、 「よい、御守護」 という良民の声は、弁慶たちも、途上、たびたび耳にしたところだった。 だから、この関所へかかるにも義経始め、富樫その人が、どんな人物か、器量のほどを、あらかじめ押し測ることもむずかしかった。 何の成算もなく、ただ、
「当って砕けろ」 の覚悟で、直面したまでだった。 |