ここの関守
、富樫左衛門尉以下は、もし義経主従が、北陸路を来れば、道は必ず、安宅あたか
を通ること、また、そのいでたちは、修験者姿であろうことを、早くから察して、 「およそ山伏と見たら、同行多勢たると、一人二人たるを問わず、めったには、関を通すな」
と、すでに、布令ふれ されてあるという。 いったい、加賀には白山はくさん
、出羽には羽黒山はぐろさん などがあるため、常でも、北陸路は、修験者の往来が多いのであり、民家にも修験行者しゅげんぎょうじゃにたいする宥いたわ
りや布施心ふせしん の厚い風がある。 しかし、このごろは、近くの里でも
“安宅の修験者だめし” といって、関所へかかった山伏で、怪しいと見られ、仮牢かりろう
へ下げられた者は、幾十人か知れない。 修験者に限っては、富樫左衛門尉自身、これを取り調べ、また、修験者上がりの達道の法師を左右において、もし無学だったり行道未熟な風が見えると、幾日でも留めおく。そして再審をかさね、なお疑いが解けねば、人相書きを附して、鎌倉表まで伺いを立てるほどな入念ぶりであるという。 「ああ、このことか。進退極まるとは」 たれの声かと思えば、伊勢三郎。 「──
退きもならず、行きもならぬ。殿御一代の大難と覚えたり。どうするぞ面々」 と、うめくように、行く手の方を見て言った 「どうも、こうもあるまい」 とは、鈴木重家の言。 「死か、生かだ。あらかじめ、かかることも覚悟の前。いま思い当たる。兵法にいう、死中しちゅう
生ありということを」 「そうだ、ここに到っては」 と、異口いく
同音どうおん に。 「ともあれ、関門へ臨み、かねて、申し合わせておいた通り、詭弁きべん
をふるって、押し通ろう。もしまた、事やぶれたら、富樫左衛門尉を一刃の下に突き刺し、たとえ何百か知れぬが、あとの木っ葉武者や番卒など薙な
ぎ払うに、なんの造作はあるまい」 ことばは違っても、即座の決心は、一つものだった。悲壮な色が、人びとの面おもて
を研と いだ。 「待て、そう色めくのは悪い。あくまで、落ち着き払うてこそ、先をも騙たばか
り得ようというもの」 いつものことだが、弁慶は日ごろとも余り変わらない。その鈍重さも、こんな場合は、かえって妙に、人に気強くひびく。人びとの血気をしずめ、周密な用意と行動の一致に欠けないことを考えさせる。 「まず、それがしと、仲教、承意の三名が、先達せんだつ
として、先に歩もう。熊井太郎、江田源三は、その後につづき給え。殿は、平修験者ひらしゅげんじゃのていにて半なか
ばに立ち、伊勢、鷲ノ尾、亀井、片岡などを後前あとさき
に、おん身の守りは、それにまかせられい。そしてただ、何事も素知ら顔におわし候そうら
え。── 童わらべ 、その次に、強力ごうりき
はもとよりずっと後に尾つ けど、万一、気怯きお
じして、いかなる狼狽うろた えに出でんも測りがたい。権頭ごんのかみ
兼房かねふさ 、信太しのだ
李成すえなり 、平賀二郎なんど、その側わき
にあって、抜かりなく、気をくばられよ」 弁慶は、告げわたして、また、義経の前へは、 「以上のほか、なんぞ、わきまえておくことでも、ございますれば」 と、一同に代わって、念を押した。 義経の眉も、常どおりに見える。細心な打ち合わせは、繰り返したことなので、ここへ来て、今さら、どうということもない。 ただ惧おそ
れるのは、何かにつけて、すぐ宥いたわ
りを自分へ注そそ ぐ、皆の家来癖である。これまでの途中でも、その癖は直っていない。 「存亡はてんにある。ただ、これより先は、一切、義経を気遣きづか
うな。眼まな ざし、ことばの端はし
なりとも」 それだけを、たしなめると、 「心得まいた。では」 とおのおの、笈を背に懸けた。 遠くに休ませておいた荷持や童を、さしまねく。そして、砂丘を降り始めた。 都より遅い桃花のふくらみや、連翹れんぎょう
の黄が、街道をつづっているが、遠い山なみには残雪が輝かがや
き、北の海は、風も春と思えないほど底冷たい。 まもなく、安宅ノ渡し。関の橋ぐちやら、遠見櫓とおみやぐら
などが、もう眼の先に望まれて来た。 |