さて。いよいよ、里へ立つ。その足どりを
「義経記 」 では ── |
義経、越前を経て、やがて加賀の篠原に宿し、斎藤実盛が打死のあとをみて、安宅あたか
ノ渡を過ぎ、根上りの松に着き、白山権現に法華ほふげ
を手向け、岩本の十一面観音に通夜つや
し、明くれば、白山に詣で、その夜は金剣宮に神楽をすすめ・・・・ |
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と、書いているが、これは往古のこととしても、順路にはならない。そして、すぐ次に、 |
──
かくて、富樫とがし
(富樫ノ庄) といふ所に着く。 |
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というのも、どうか。 また、その日も
“義経記” では、 「安宅ノ関にかかったのは、折りふし桃も季節であった」 としているが、日はさだかでない。ただ仲教は元、白山末寺の湧泉寺ゆうせんじ
にいたことがあり、この地方の地理には明るく、有縁うえん
もあったろうから、富樫ノ庄へ入る前夜は、どこかの寺房に泊って、 「いかに、あすの関所を、首尾よく越えるか」 を、練ね
りに練ったことだけは、間違いあるまい。 すでに、前々からも、この先には、北国路第一の厳重な関所があるとは、分かりきっていた。 関は古くからだが、近年廃絶したままになっていたのを、きびしい鎌倉布達ふたつ
や院宣のため、にわかに新関を構えたもので、一面は海にのぞみ、東南の広茫こうぼう
一帯は、無数の水面をつなぐ大小の河川や沼地だった。かつては、上洛途中の木曾勢も、さんざん苦戦をなめた蹟で、ここよりほかの抜け道もない。 修験者二十名、童わらべ
、強力数名という同勢は、いやでも、鄙ひな
の人目をそばだたしめる。 途中、里へかかると、面々は、 「これは、世に聞こゆる東大寺大仏殿造立ぞうりゅう
の勧進かんじん のため、北国に下ったる同行にてあんなれ、心ある者は、一紙いっし
半銭はんせん の合力なりと寄進候え」 と、触れて通った。 こうして、その日、かねて期ご
していた安宅ノ関も、遠からぬ所まで来た。 義経は、足をとめて、 「はや、近いか」 と、仲教に訊き
いた。 「半里とはございますまい」 と、彼は即答する。 大勢の眸には、ギラとみなぎるものがあった。言い合わせたように一所に淀みあう。 亀井六郎と、仲教とが、 「しばし、この辺で、お待ちくださいましょうず」 と、すぐ言った。 「聞こゆる安宅ノ関とは、どれほどな固めなるか、また柵さく
の構えなど、それとなく、物見して参りますれば」 義経は、うなずいて、 「では、かなたの砂山の蔭で、憩いこ
うていよう。どうあろうと、通らねばならぬそこの関、その場はその時の覚悟でもいい。余りに近づいて、気け
どられるな」 「心得ておりまする。お案じなく」 同行の群れを、そこにおいて、二人は、そのまま先へ、さり気なく歩いた。 |