〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/21 (木)  たかせき (二)

さて。いよいよ、里へ立つ。その足どりを 「義経記ぎけいき 」 では ──

義経、越前を経て、やがて加賀の篠原に宿し、斎藤実盛が打死のあとをみて、安宅あたか ノ渡を過ぎ、根上りの松に着き、白山権現に法華ほふげ を手向け、岩本の十一面観音に通夜つや し、明くれば、白山に詣で、その夜は金剣宮に神楽をすすめ・・・・
と、書いているが、これは往古のこととしても、順路にはならない。そして、すぐ次に、
── かくて、富樫とがし (富樫ノ庄) といふ所に着く。
というのも、どうか。
また、その日も “義経記” では、 「安宅ノ関にかかったのは、折りふし桃も季節であった」 としているが、日はさだかでない。ただ仲教は元、白山末寺の湧泉寺ゆうせんじ にいたことがあり、この地方の地理には明るく、有縁うえん もあったろうから、富樫ノ庄へ入る前夜は、どこかの寺房に泊って、
「いかに、あすの関所を、首尾よく越えるか」
を、 りに練ったことだけは、間違いあるまい。
すでに、前々からも、この先には、北国路第一の厳重な関所があるとは、分かりきっていた。
関は古くからだが、近年廃絶したままになっていたのを、きびしい鎌倉布達ふたつ や院宣のため、にわかに新関を構えたもので、一面は海にのぞみ、東南の広茫こうぼう 一帯は、無数の水面をつなぐ大小の河川や沼地だった。かつては、上洛途中の木曾勢も、さんざん苦戦をなめた蹟で、ここよりほかの抜け道もない。
修験者二十名、わらべ 、強力数名という同勢は、いやでも、ひな の人目をそばだたしめる。
途中、里へかかると、面々は、
「これは、世に聞こゆる東大寺大仏殿造立ぞうりゅう勧進かんじん のため、北国に下ったる同行にてあんなれ、心ある者は、一紙いっし 半銭はんせん の合力なりと寄進候え」
と、触れて通った。
こうして、その日、かねて していた安宅ノ関も、遠からぬ所まで来た。
義経は、足をとめて、
「はや、近いか」
と、仲教に いた。
「半里とはございますまい」
と、彼は即答する。
大勢の眸には、ギラとみなぎるものがあった。言い合わせたように一所に淀みあう。
亀井六郎と、仲教とが、
「しばし、この辺で、お待ちくださいましょうず」
と、すぐ言った。
「聞こゆる安宅ノ関とは、どれほどな固めなるか、またさく の構えなど、それとなく、物見して参りますれば」
義経は、うなずいて、
「では、かなたの砂山の蔭で、いこ うていよう。どうあろうと、通らねばならぬそこの関、その場はその時の覚悟でもいい。余りに近づいて、 どられるな」
「心得ておりまする。お案じなく」
同行の群れを、そこにおいて、二人は、そのまま先へ、さり気なく歩いた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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