〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/21 (木)  たかせき (一)

── 正月から二月いっぱい。その間の五、六十日というもの。
義経の足跡は、どこにも見ることが出来ない。
皆目かいもく 、世上には分からなかった。
一月早々、堅田船を湖北で捨て、越前国境へ、踏み分け行ったことは確かである。
── だが、それっきり、雪雲にくるまれた鳥影の行方にも似、ただ世間の飛説ばかりが紛々だった。
鎌倉表では一時、はや二月中に、奥州へ逃げ入ったかと見、またたちまち 「そうでもない」 と、反対な説を取った。
“保暦間記” などがしる す風聞では、 「義経の奥州入り、三月中か」 とある。
東山道方面でも、
「木曾の口で、にせ山伏らしいものを見かけた」
とか、
「怪しげな山伏の群れが、山宿にたむろ していた」
などの取沙汰も、まちまちだったが、どれも、根拠あるものではない。
おそらく、義経は、案外な所にいただろう。そして、鎌倉表や六波羅を、揶揄やゆ する目的ではないにしても、
「なんと、うろたえざまの、おかしさよ」
と、どこかで、苦笑していたことにちがいない。
事実、彼は意表をついていた。
どこにいても聞こえるそうした世上の風聞は、また、その裏をかいてゆく側にとっては、いちいち都合のよい指針にもなる。
正月半ばごろ、越前国敦賀つるが を経て、足羽あすは 郡の足羽御厨あすはのみくりやにはいった義経は、そこの庄司しょうじ の家で、彼を待ち合わせていた二人の法師に迎えられ、数日滞在していた模様だったが、
「ここも、人里近し」
と見てか、ほどなく、白山はくさん へ向かって行った。
もともと、北陸方面には、古くからの叡山勢力が根を張っていた。叡山の持つ寺領もあれば、叡山系流の末院は少なくなく、平泉寺もそうだし、白山なども、そのゆう なるものだった。
わけてまた、白山三所さんしょ は、修験者しゅげんじゃ行場ぎょうば であり、白山妙理権現は、叡山の日吉ひえ 山王さんのう の末社でもある。── 義経が、足羽で待ち合わせていた二法師を案内として、そこへ隠れたのも、つと に京を去る以前から、めんみつに企てられていたものに相違ない。
ところで、彼を案内した二法師とは、たれかというに、叡山の法師承意と仲教とであった。
この二人は、いちど都で、義経隠匿者の嫌疑けんぎ で、検非違使けびいし に捕まり、その後、行方をくらまして、六波羅では、やっきとなって、捜索中の者たちだった。
義経は、妙御前たえごぜ 山の西麓せいろく 堂ノ森に、二月中は雪ごもりしていた。人里には遠く、あらゆる点で、便宜であったらしい。
ひそ かな人出入りもまま見えた。
ある夜は、おそ くまでの、炉辺密談もあったりする。
まどかな、炉べりをめぐ る主従の中には、ここ四、五十日にうちに、幾人かの、新たな顔も加わっていた。
さきには、主従わずか七名だったのが、いよいよ、春三月の雪解けを見て、
「里のうわさのほとぼりも、さめたであろう。東大寺大勧進の巡行には季節もころあい。いざ、行こうか」
とその前夜、身支度にかかっているのを見ると、同勢二十名にもふえていた。
ここからの随行者は、たれたれかといえば。
熊井太郎、江田源三、権頭ごんのかみ 兼房かねふさ 、備前平四郎定清、平賀二郎兼宗、秋田太郎あきたのたろう 盛純もりずみ信太しのだの 李成すえなり 、福島藤次忠隆などであった。
従来、余り聞かない名も見える。それらの面々は、白山を落ち合う場所と、前もって知っていたか、または北陸に身を潜めていた者が、この期間に、扈従こじゅう の約をえたのでもあろうか。
ほかに、叡山の承意、仲教も同行し、三人のわらべ 、荷持ちの強力ごうりき などもいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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