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正月から二月いっぱい。その間の五、六十日というもの。 義経の足跡は、どこにも見ることが出来ない。 皆目
、世上には分からなかった。 一月早々、堅田船を湖北で捨て、越前国境へ、踏み分け行ったことは確かである。 ── だが、それっきり、雪雲にくるまれた鳥影の行方にも似、ただ世間の飛説ばかりが紛々だった。 鎌倉表では一時、はや二月中に、奥州へ逃げ入ったかと見、またたちまち
「そうでもない」 と、反対な説を取った。 “保暦間記” などが誌しる
す風聞では、 「義経の奥州入り、三月中か」 とある。 東山道方面でも、 「木曾の口で、にせ山伏らしいものを見かけた」 とか、 「怪しげな山伏の群れが、山宿に屯たむろ
していた」 などの取沙汰も、まちまちだったが、どれも、根拠あるものではない。 おそらく、義経は、案外な所にいただろう。そして、鎌倉表や六波羅を、揶揄やゆ
する目的ではないにしても、 「なんと、うろたえざまの、おかしさよ」 と、どこかで、苦笑していたことにちがいない。 事実、彼は意表をついていた。 どこにいても聞こえるそうした世上の風聞は、また、その裏をかいてゆく側にとっては、いちいち都合のよい指針にもなる。 正月半ばごろ、越前国敦賀つるが
ノ津つ を経て、足羽あすは
郡の足羽御厨あすはのみくりやにはいった義経は、そこの庄司しょうじ
の家で、彼を待ち合わせていた二人の法師に迎えられ、数日滞在していた模様だったが、 「ここも、人里近し」 と見てか、ほどなく、白山はくさん
へ向かって行った。 もともと、北陸方面には、古くからの叡山勢力が根を張っていた。叡山の持つ寺領もあれば、叡山系流の末院は少なくなく、平泉寺もそうだし、白山なども、その雄ゆう
なるものだった。 わけてまた、白山三所さんしょ
は、修験者しゅげんじゃ の行場ぎょうば
であり、白山妙理権現は、叡山の日吉ひえ
山王さんのう の末社でもある。──
義経が、足羽で待ち合わせていた二法師を案内として、そこへ隠れたのも、夙つと
に京を去る以前から、めんみつに企てられていたものに相違ない。 ところで、彼を案内した二法師とは、たれかというに、叡山の法師承意と仲教とであった。 この二人は、いちど都で、義経隠匿者の嫌疑けんぎ
で、検非違使けびいし に捕まり、その後、行方をくらまして、六波羅では、やっきとなって、捜索中の者たちだった。 義経は、妙御前たえごぜ
山の西麓せいろく 堂ノ森に、二月中は雪ごもりしていた。人里には遠く、あらゆる点で、便宜であったらしい。 密ひそ
かな人出入りもまま見えた。 ある夜は、晩おそ
くまでの、炉辺密談もあったりする。 まどかな、炉べりを繞めぐ
る主従の中には、ここ四、五十日にうちに、幾人かの、新たな顔も加わっていた。 さきには、主従わずか七名だったのが、いよいよ、春三月の雪解けを見て、 「里のうわさのほとぼりも、さめたであろう。東大寺大勧進の巡行には季節もころあい。いざ、行こうか」 とその前夜、身支度にかかっているのを見ると、同勢二十名にもふえていた。 ここからの随行者は、たれたれかといえば。 熊井太郎、江田源三、権頭ごんのかみ
兼房かねふさ 、備前平四郎定清、平賀二郎兼宗、秋田太郎あきたのたろう
盛純もりずみ 、信太しのだの
李成すえなり 、福島藤次忠隆などであった。 従来、余り聞かない名も見える。それらの面々は、白山を落ち合う場所と、前もって知っていたか、または北陸に身を潜めていた者が、この期間に、扈従こじゅう
の約をえたのでもあろうか。 ほかに、叡山の承意、仲教も同行し、三人の童わらべ
、荷持ちの強力ごうりき などもいた。
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