秀衡は、伽羅御所
の内に、西行を迎えると、 「その老体で、よう下られたの。しかも、真冬を」 と、心からの宥いたわ
りを見せ、 「さても、久しぶりだな。・・・・この前の平泉逗留とうりゅう
は、あれは、いつの年であったか」 などと、室を暖めて、往事おうじ
近時きんじ の話に、ひと夜二た夜は、側を離さないほどだった。 由来、彫刻、建築の諸工芸家から、公卿、僧侶そうりょ
、文人などの中央人を優遇する風は、藤原氏の家風と言ってよいほどである。 それに、西行と秀衡とは、遠い親戚しんせき
で、会うのも、今が二度目である。この前の平泉行脚あんぎゃ
は、保元二年、西行が四十歳の年だった。 ── その間、三十年が流れている。 けれど、平泉の外観も、伽羅御所の内も、いよいよその栄えに、爛熟らんじゅく
はあっても、変わりは見えなかった。── 変わったと思えたのは、秀衡の鬢髪びんぱつ
の白さだけだ。が、それは、西行とて同じである。 「じつは、このたび、老躯ろうく
を押して参りましたのは、ほかならぬお願いがあってのことでございまする・・・・」 西行は、そのことを言ってしまわないうちは、心からくつろげなかった。 というのは、こんどの旅は、東大寺重源ちょうげん
上人しょうにん の切なる依頼から、ぜひなく、下って来たもので、大仏殿造営の寄進を、秀衡へ乞うのが、目的だった。 だが、そういう物質的なことになると、とんと晦くら
いし、また重荷とも感じる彼は、ひどく言いにくそうであった。 秀衡は、彼の訥々とつとつ
たる口ぶりを、始終、笑顔で聞いていて、 「承知いたした。その御勧進ごかんじん
なれば、秀衡も出来るだけのお手伝いはしよう。お案じなく、冬中は滞在して、ゆるりと、雪解けを見て立つがよい」 と、言ってくれた。 それで西行は、ひとまず、ほっとしたのである。 伽羅御所の歓待かんたい
は、彼にはかえって、重苦しかった。 「わがままですが」 と、柳御丸やなぎのおまる
の一隅いちぐう に居を乞うて、正月も越した。 ここでは、冬はずいぶん長い気がする。けれど、ひとりに倦う
むことはない彼であった。一炉いちろ
は妻、一机いっき は友、筆を持ったり、歌を詠んだり、人からは
「なに愉しみに」 と疑われても、彼自身の心は、ただの一日でも、愉しまぬという日はない。 しかし、そういう彼にも、長逗留ながとうりゅう
のうちには、つい、いろんなことが耳に入る。 鎮守府将軍の内も、ようやく、当主秀衡の老境にしたがって、事むずかしい悩みもあるとか。 秀衡には、六男があった。 腹ちがいの長兄、西木戸太郎国衡と、正腹の嫡子、泰衡とがいる。 ほかに高衡、忠衡、通衡みちひら
、頼衡などの兄弟大勢だが、特に、すぐれて見ゆる者もないのが、父秀衡の後生ごしょう
の憂いであるらしい。 ひとたび、その父が亡な
い後の、老大国の将来は、他人にさえ、危ぶまれるものがあった。兆きざ
しは、日ごろにも見えている。 おりもおり、西行にも聞こえて来る。 おなじ柳御丸やなぎのおまる
の地内のどこかでh、しきりに工を急ぐらしい鑿のみ
や手斧ちょうな の音が毎日していた。──
源判官げんほうがん どのが、いつお着きあらんかも知れぬゆえ、そのための、館拵やかたごしら
えの造作ぞうさく であると、まれに、ここへ見える侍が西行にささやいたことだった。 「ああ、みちのくの仏都の姿も、いつまでのことか」 西行何かしら、ここも長居する所ではないように、思われた。恐ろしい予感に、そわそわする。 ──
いつか、自分を柳営へ直々じきじき
に召されて、兵馬弓箭きゅうせん
のことやら、世事和歌の談まで、親しく訊たず
ねられた頼朝という人の眸め や、磁器のような底冷たい感じなどが、ふと西行のあたまに泛うか
んだ。 |