〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十六) ──
吉 野 雛 の 巻

2014/08/19 (火)  とう みんくに (一)

こよみ のうえでは、初春はる だが、みちのくは、今が厳冬の中だった。金色こんじき の仏都といわれる首府平泉は、暮れても雪、明けても雪、遠寺の塔のさき は、氷の針に見える。
まったく冬眠の国、そして一見、無音寂寞じゃくまく な雪一色であった。けれどその底には、やはり駸々しんしん たる外界からの不断な時の流れが、聞こえていた。
「ついに、御館をお頼りあって、源九郎判官どのが、忍びやかに、くだ られて来るそうな」
ふしぎなほどだ。たれに口からというのでもない。
秀衡の伽羅きゃら御所ごしょ では、すでにそんな消息を持っていた。けれど、重職にある同族などは、
怪態けたい な取り沙汰。ありもせぬことをば」
と、眉をせばめ、
「めったなうわさは、御館の御迷惑であろうぞ」
と、渋面じゅうめん をしめして打ち消す。
だからそれが、いかに関外 (奥州二州の外) の聞こえをはばかる機密かは、たしなめられる家中の一般の方でも、よく分かった。
そのうえ、俗に高館下たかだちした という、柳御丸やなぎのおまる の一邸には、二月末ごろから、諸職の工匠たくみ がはいって、手入れにかかっていることなども、かくれない。
そして、もし義経主従が、不時に着いた場合でも、さし当っては、さっそくそこを仮の居住にあて、おりをみて、他の永住のお館を、新たにしつら えられるのではないか。
そんな推測も、暗黙の内に、持たれていたのである。
── ところが、ここ に、おなじ柳御丸の地内に、仮の住居を得ていた一法師については、
「あれは何の為にいる客か」
とも人びとは問わなかった。一方に気を取られてか、置き忘れられたものに似ている。
が、そこの普賢堂ふげんどう の一房に、冬籠りしていた西行は、むしろ人びとの忘れ顔を、願ってもないことして、遅い雪国の雪解けを待っていた。
西行が、この地へたどり着いたのは、去年の冬で、その日も、ひどい風雪だったが、こんどほどは、雪に悩まされ通した旅は、彼の遍歴生涯しょうがい にも覚えがない。
── 去年、鎌倉で頼朝に会い、銀の子猫こねこ などもらって、苦笑しつつ、柳営の門を辞したのは、忘れも得ぬ八月十五日の名月の夕だった。
年を越えれば七十となる老いの脚でも、あれからなら、どう、ゆっくり旅したところで雪を見ぬまに、平泉には着けよう。── そう計っての旅立ったが、下総国しもふさのくに 葛飾かつしか幸手さつて という里まで来たとき、思わぬ病に してしまった。
いともわび しい木賃きちん の、それも物置同様な寝小屋。
こういう時こそ、天涯てんがい のひとりぼっちの身の上は、いいようもなく、心細い。
だが、正念の試しでもある。みずから問うて、あがきや苦慮が、少しでも自分に見えたら、求めて歩いた生涯の孤独の道はうそ になろう。西行という者の歌は、人をいつわり、自分をもあざむ いていた歌になる。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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