また、ほの暗い、次の小間は、御寝所か。 荒壁へ寄せて、竹の竿
の衣桁いこう に、麻のおん衣、紙の衾ふすま
などが、懸けてあり、おん袖に、青い虫が一匹、ひげをふるわせていた。ほかにといって、何一つない。── かつての日には、唐衣からぎぬ
や、袿衣うちぎ の袖に、幾重の色を襲かさ
ね、綾羅りょうら の粧い、錦繍きんしゅう
の妍けん を競い合う、宮中の麗人たちの中にいてさえ、いつ、どんな所でも、見劣ったことのない建礼門院の、これが今は、御起居の物の、すべてであろうか。 「・・・・・」 法皇は、触目の一つ一つに、お心を涙で刺されずにはいられなかった。治承、寿永このかた、いやそれより以前から、このような生贄いけにえ
を、乱世の血の祭壇と魔神の前に、どれほど捧げて来たことだろうか。 ふと、御感慨もわく。 けれど、その乱世の雲の上に座して、御自身が、どう処しょ
されて来たか、清盛をして、 「後白河の君こそ、希代きたい
な政略家なれ」 と呼ばしめ、また、頼朝をしてさえ、 「大天狗とは院のことなり」 と言わしめた、御自身のうちにあるもの、それへの御反省までは、思い及ばれもしなかった。 ただ、かえりみれば。 平治から幾十年のうちに、御血縁の皇族、寵臣ちょうしん
、外戚がいせき の平家、そのほか、無数の武者輩ばら
まで、戦い戦い、ほとんどみな落花か血の泡沫ほうまつ
とかき消えてしまったのに、御自身のみは、ひとり帝王の座も失われず、六十のおん齢よわい
もなお矍鑠かくしゃく として、こう在ることが、極めて当然な、としていらっしゃる君王の常識のうちにも、多少、他への憐あわ
れを、お催しにはなるのであろう。わけて、亡な
き御実子高倉帝のお后きさき であり、清盛の一女であった女院へは、とりわけ、御憐愍ごれんびん
の切なるものがあったには違いない。 ── 山へ花摘みに行かれたという女院はまだお姿を見せなかった。が、後白河は、倦う
むこともなかった。 何か、今日一日だけは、人界を離れて、人界の古往こおう
今来こんらい 、さまざまを、思い巡らすため、ここに措かれたようなお心地でもある。 そのうちに。──
ふと後白河は、たれかの眼が、ここの自分を、さっきからじっと見ていたことに気づかれた。それは、横のほの暗い壁に懸っていた一軸いちじく
の童子像であった。 たれの筆に成ったのか、画像は、まぎれない先帝 (安徳天皇) の御影ぎょえい
である。おん母の手で、今も朝夕、欠かすことなく、上げられているのであろう。供御くご
の膳器ぜんき 、花、香炉こうろ
などが供えてあった。 後白河は、その似絵の眼と、御自分の眼が、ゆくりなく、出合ったような気はされたが、じつの御孫に対する愛撫あいぶ
の情はわいても来なかった。かえって、何か、背すじへ寒さをお覚えになったらしく、あわてて、お眸め
を、外へそらした。 ちょうどその時、裏山から小道を、ここへ降りて来る二人の尼僧が、かなたに見えた。よくよく御覧ごろう
じあると、濃い墨染めの法衣ころも
、ま白な下重ね、ふと見違えられもするが、先帝の乳人めのと
大納言だいなごんの 佐すけ
ノ局つぼね と、もう一と方は、まぎれもなく、後白河が、待ち久しげにお待ちしていた建礼門院に違いなかった。 |