〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/16 (土) お ん がお (一)

ほどなく、一人の老尼が、そこを開けて、外の人びとを見るやいな 「・・・・あ?」 と、驚きしびれたように、ひざまずいた。
後白河は、老尼の背へ、 を落として、
「はて、見たような?」
と、小首をかし げて、仰っしゃった。
尼は、しばらくの間、御返辞にも及ばず、とっさの驚きから めたあとも、さめざめと泣き暮れていたが、ややあっておそ る畏るお答えした。
「あまりに年月も 、姿も変わり果てましたゆえ、御覧ごろう じ忘れあそばすも、ごむりではございませぬ。わたくしは、 少納言しょうなごん 信西しんぜい のむすめ、阿波あわ内侍ないし と申しまする。母は、紀伊ノ二位ノ局」
「おお、紀伊のむすめか」
後白河は、もういちど、おん眼をみはられた。自分の乳母めのと のむすめが、もうこんなにも、年老いていたのか ── と、そぞろわが身に過ぎた歳月も、振り返られたものであろう。
「・・・・女院は」
と、お問いになると、
「この上の山へ、花など みにと、つい今し方、お出でましなされました。さても、おもいがけない御幸、夢ではございますまいか」
と、内侍は、信じられぬことに直面したように、おろおろしつつも、すぐ山の方へ、告げに行こうとした。
後白河は、内侍をお止めになって、
「さは、驚かさぬがよい。しばらくは、まろも山路の疲れを、かなたで休めていようほどに」
と、あるじ の見えぬ御庵室ごあんしつ へ通られた。
内侍は、障子を引きあげて、卯月うづき (四月) も末の翠光水声すいこうすいせいを、くま なく呼び入れた。池水に咲く紫や、まがき のつつじ、山吹、山藤やまふじ 、雪柳など、唐屏風からびょうぶ の絵のようなながめを、叡覧えいらんひら いた。
「オオ木立の様、閑居の清たけさ、寺房は寺房の山水せんすい ではあるが、さすがどこやら女性にょしょう の住まう、おもむき なある」
と、法皇は、それにも御感ぎょかん の態であった。だかなお、おん眼をこらされたのは、朝暮ちょうぼ 女院が平家一門の供養と、世の泰平を、御祈願あらせられるらしい、お勤めの座であった。
正面に、三尊さんぞん の像をおかれ、中の釈尊しゃくそん のお手には、五色ごしき の糸が懸けられてある。── いつ死なんとも、来世らいせ のみちびきは、まかせ奉らんと願う、引導いんどう の糸、誓いの糸とみえる。
方丈窓の下を見れば、そこの小机には、法華経、九帖の経巻などが、おかれてある。しかし歌書はあっても、反古ほご の乱れは見えず、ちり だにない冷たさは、余りに世の外の物のようで、むご いばかりなきび しさと、あわれを、ひしと感ぜしめる。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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