ほどなく、一人の老尼が、そこを開けて、外の人びとを見るやいな
「・・・・あ?」 と、驚きしびれたように、ひざまずいた。 後白河は、老尼の背へ、眸
を落として、 「はて、見たような?」 と、小首を傾かし
げて、仰っしゃった。 尼は、しばらくの間、御返辞にも及ばず、とっさの驚きから醒さ
めたあとも、さめざめと泣き暮れていたが、ややあって畏おそ
る畏るお答えした。 「あまりに年月も経へ
、姿も変わり果てましたゆえ、御覧ごろう
じ忘れあそばすも、ごむりではございませぬ。わたくしは、故こ
少納言しょうなごん 信西しんぜい
のむすめ、阿波あわ ノ内侍ないし
と申しまする。母は、紀伊ノ二位ノ局」 「おお、紀伊のむすめか」 後白河は、もういちど、おん眼をみはられた。自分の乳母めのと
のむすめが、もうこんなにも、年老いていたのか ── と、そぞろわが身に過ぎた歳月も、振り返られたものであろう。 「・・・・女院は」 と、お問いになると、 「この上の山へ、花など摘つ
みにと、つい今し方、お出でましなされました。さても、おもいがけない御幸、夢ではございますまいか」 と、内侍は、信じられぬことに直面したように、おろおろしつつも、すぐ山の方へ、告げに行こうとした。 後白河は、内侍をお止めになって、 「さは、驚かさぬがよい。しばらくは、まろも山路の疲れを、かなたで休めていようほどに」 と、主あるじ
の見えぬ御庵室ごあんしつ へ通られた。 内侍は、障子を引きあげて、卯月うづき
(四月) も末の翠光水声すいこうすいせいを、隈くま
なく呼び入れた。池水に咲く紫や、籬まがき
のつつじ、山吹、山藤やまふじ
、雪柳など、唐屏風からびょうぶ
の絵のようなながめを、叡覧えいらん
に展ひら いた。 「オオ木立の様、閑居の清たけさ、寺房は寺房の山水せんすい
ではあるが、さすがどこやら女性にょしょう
の住まう、趣おもむき なある」 と、法皇は、それにも御感ぎょかん
の態であった。だかなお、おん眼をこらされたのは、朝暮ちょうぼ
女院が平家一門の供養と、世の泰平を、御祈願あらせられるらしい、お勤めの座であった。 正面に、三尊さんぞん
の像をおかれ、中の釈尊しゃくそん
のお手には、五色ごしき の糸が懸けられてある。──
いつ死なんとも、来世らいせ のみちびきは、まかせ奉らんと願う、引導いんどう
の糸、誓いの糸とみえる。 方丈窓の下を見れば、そこの小机には、法華経、九帖の経巻などが、おかれてある。しかし歌書はあっても、反古ほご
の乱れは見えず、塵ちり だにない冷たさは、余りに世の外の物のようで、酷むご
いばかりな厳きび しさと、あわれを、ひしと感ぜしめる。 |