〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/16 (土) おお はら こう ・ そ の 二 (三)

道は、いよいよ登りつめて、鞍馬の九十九つづら おり も、半ばまで来た。
そのまま、なお行けば、鞍馬寺の山門である。が、御幸の人びとは、坂の途中から、北の細道へ、曲がって行く。
たけ なす夏草や、灌木かんぼく のしげみが輿こし だけを見せて、人の姿をおおい隠してしまう。
裏ヶ嶽、二ノ瀬も過ぎる。
高地の爽涼そうりょう が、肌に迫って来た。霧の流れは、脚もとをめぐ っている。── 東は近々と、比叡の巒気らんきむか い、西には奥鞍馬や貴船山きぶねやま や、丹波たんば の山波が、平行した視界のうちにはいっていた。
「辺りは、静市野しずいちの とか申す山中のよし。お疲れでございましょうが、これよりは、北へ道も降りばかりなそうですから」
と、人びとは、おん輿の内を、仰いで言う。
汗をぬぐい、清水を汲み、供奉ぐぶ の面々も、ひと息入れた。── そしてまた、薬王坂や江文えぶみ の山里を、爪先下がりに下がって行く。
大原は、降りつくした山峡だった。
「こんな所にも人が住むか」
と、怪しまれるような草屋根が、所々に見え、四山から落ちあう水は、岩間をはし り、道をせばめ、輿も行きなやむばかりである。 「寂光院は、どこぞ?」 と、幾たびとなく、山家やまが の者へ尋ね尋ねて、ようやく、それらしい一宇いちう の堂が、草生くさふ と呼ぶ里の山蔭に望まれた。
「ああ、ここか。・・・・このような所にか」
輿を降り立たれた法皇は、あやうげな石だんを、幾歩かお登りになりつつ、辺りの様を、しげしげと、ながめておられた。── これが、かつては、清涼殿せいりょうでん紫宸ししん の百官からも、天子の御母と仰ぎかしず かれていたきさき の住居か。あの清盛が、目のうちへ入れても痛くないほど可愛がっていたむすめの果てか。
・・・・ぼう と、多感を禁じ得ないおたたず みを、そこの青苔あおごけ に久しゅうしておられた。
左大将後徳大寺実定やら、花山院大納言、そのほかは、はや、つたかずら忍草しのぶぐさかき を前に、絶えて開けたこともないような朽ちたる小門さしのぞいて、
「お人やある。お人やある」
と、おとずれていた。
けれど、一こう内の返辞もなく、ただ、深い山蔭の みどり浅みどりのうち から、岩肌を伝うて、奔々ほんぽん と流れ下って来る不断のがく が、耳を洗うだけであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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