道は、いよいよ登りつめて、鞍馬の九十九
折おり も、半ばまで来た。 そのまま、なお行けば、鞍馬寺の山門である。が、御幸の人びとは、坂の途中から、北の細道へ、曲がって行く。 丈たけ
なす夏草や、灌木かんぼく のしげみが輿こし
だけを見せて、人の姿をおおい隠してしまう。 裏ヶ嶽、二ノ瀬も過ぎる。 高地の爽涼そうりょう
が、肌に迫って来た。霧の流れは、脚もとを繞めぐ
っている。── 東は近々と、比叡の巒気らんき
に対むか い、西には奥鞍馬や貴船山きぶねやま
や、丹波たんば の山波が、平行した視界のうちにはいっていた。 「辺りは、静市野しずいちの
とか申す山中のよし。お疲れでございましょうが、これよりは、北へ道も降りばかりなそうですから」 と、人びとは、おん輿の内を、仰いで言う。 汗をぬぐい、清水を汲み、供奉ぐぶ
の面々も、ひと息入れた。── そしてまた、薬王坂や江文えぶみ
の山里を、爪先下がりに下がって行く。 大原は、降りつくした山峡だった。 「こんな所にも人が住むか」 と、怪しまれるような草屋根が、所々に見え、四山から落ちあう水は、岩間を奔はし
り、道をせばめ、輿も行きなやむばかりである。 「寂光院は、どこぞ?」 と、幾たびとなく、山家やまが
の者へ尋ね尋ねて、ようやく、それらしい一宇いちう
の堂が、草生くさふ と呼ぶ里の山蔭に望まれた。 「ああ、ここか。・・・・このような所にか」 輿を降り立たれた法皇は、あやうげな石だんを、幾歩かお登りになりつつ、辺りの様を、しげしげと、ながめておられた。──
これが、かつては、清涼殿せいりょうでん
や紫宸ししん の百官からも、天子の御母と仰ぎ侍かしず
かれていた后きさき の住居か。あの清盛が、目のうちへ入れても痛くないほど可愛がっていたむすめの果てか。 ・・・・茫ぼう
と、多感を禁じ得ないお佇たたず
みを、そこの青苔あおごけ に久しゅうしておられた。 左大将後徳大寺実定やら、花山院大納言、そのほかは、はや、つた葛かずら
や忍草しのぶぐさ の垣かき
を前に、絶えて開けたこともないような朽ちたる小門さしのぞいて、 「お人やある。お人やある」 と、おとずれていた。 けれど、一こう内の返辞もなく、ただ、深い山蔭の濃こ
みどり浅みどりの裡うち から、岩肌を伝うて、奔々ほんぽん
と流れ下って来る不断の楽がく
が、耳を洗うだけであった。 |