牛車は、みぞろ池の北、幡枝御堂につないで、北面三人だけを留め、法皇は、そこから先、あじろの輿こし
に乗り換えられた。 もう車は行きえない。道は岩倉山と神山かみやま
のあいだを縫い、ようやく山坂の嶮けん
をあらわしてくる。 「はや、道のりは、半ばを来たか」 山中なので。輿こし
の簾す を揚げ、後白河はときどき、扈従こじゅう
のうえへ、話しかけた。 老いたるは、輿こし
でお供につづき、若い堂上人びと
はみな歩いた。輿上よじょう に揺られるのと、歩行とでは、どっちが楽かわからないほどである。 「いや、半ばを過ぎましても、道のけわしさは、これから先だございまする」 たれかの答えを、お耳でうなずくと、 「・・・・むむ。そうだったのう」 と、つぶやかれた。 後白河にはこの山道が、今日初めてではないらしい。 が、ゆくりない御記憶が滲にじ
み出るのを、打ち消そうとでもなさるように、ふとおひざの上の指先で、香筥こうばこ
のひもを解き始めた。そして、その小さい筥はこ
の底をお鼻の先へ持って行かれた。そして 「・・・・清盛の匂にお
いがする」 ── と、すぐお感じになった。三寸ほどに截た
ち断き った香木が、中にくるまれてあるのだった。 名香であった。 おそらく清盛が、その晩年、宋そう
との交易で購あがな い入れた物の一つであろう。みずから、
“無憂華むゆうげ ” と銘じて、福原の雪ノ御所でも、西八条の起居にも、衣に焚た
きしめて、またなく愛用していた。それの薫気くんき
の気け だかさから、内々法皇にも、御所望の切なるものがあった。と知ると清盛は、秘蔵の宝木ほうぼく
を、惜しげもなく二つに截き って、その一つを院へ献じたのであった。 今となってみれば、それは、清盛の気心をよく現わした形見でもあり、いわば清盛の遺薫いくん
そのものであった。── けれど後白河は、清盛の亡後、なんとなく “無憂華むゆうげ
” の香気に焚き染められるのが、お苦しくなった。香の幻は、清盛の亡霊のように、後白河のお胸に、さまざまな追憶を当然、甦よみがえ
らすからであった。で、いつかお用いになるのをきらい、つい今日まで、筐底きょうてい
におかれたままであったのである。 が、大原御幸を思おぼ
し召したたれた日から、後白河はひそかに 「・・・・女院を訪う日の、みやげに」 と、お心にとめておられた。 建礼門院徳子にとれば、それこそなつかしい、在あ
りし日の父の香がすることであろう。父とともに在る心地を呼ぶ物ではないか。 ── 御幸のおん土産物みやげもの
として、ほかにも種々くさぐさ
な品を御用意であったが、女院をなぐさめるには、これにまさる贈り物はあるまい。そう思われて、輿の内から、女院のよろこぶ顔を、瞼まぶた
にしておられる御舅君おんしゅうとぎみ
の後白河法皇であった。 |