季節は卯
の花はな のさかりである。路次や籬まがき
に、ほの白いのはそれであろう。六条を出たおしのびの御車も、まだ都の端はず
れを離れていなかった。夜はまだ明けず、町の音もせず、ほとtぎすの翔か
ける影が、雲と雲のきれ目にふと見えたりした。 「やれ待て。ここは一条らしいが、小川こがわ
の辺りか、戻り橋か」 み車の物見へお顔を寄せて、内から供奉ぐぶ
の者へ、後白河のお声がしていた。 車脇くるまわき
の北面ほくめん (滝口の武者)
が、牛飼の足を止める。そして、公卿のひとりは、轅ながえ
のそばへ寄って行った。横─ 上意とみえる。み車を中心に、供の輿こし
や騎馬もみな、戻り橋の橋たもとへかたまってゆき、そこで人待ち顔に、しばし休み合っていた。 まもなく、石川の判官代長実ながざね
が、馬をとばして、追いついて来た。そしてそれが、御幸ごこう
の途中から、御所へ引っ返して持って来た法皇のお忘れ物を、 「お待たせ仕りました。おさしずの御品は、こででございましょうか」 と、み車の内へ捧げた。 後白河は、その小さい香筥こうばこ
を手にされると 「・・・・おお、これぞ」 と、今朝お出ましの真際まぎわ
につい持ち忘れた物を見て、御満足のようだった。のみならず、 「誰た
ぞ歌でも詠よ み出ぬか」 と、興きょう
じられた。 お忘れ物が、ここで手に戻った、そのことを、おもしろしと、思われたものか。 でなければ、源氏物語の宇治の巻に、この一条戻り橋のことを
“── 行くは帰るの橋” とあるから、それと今日の御幸とを、結び合わせての、御興ごきょう
じか。 だが公卿たちは、あれこれ、思い迷うだけで、聞こえ上げるほどな歌も出来ない様子だった。それに、この戻り橋は、古来から辻占橋つじうらばし
という名もあって、さまざまな人が、さまざまな場合に、辻占つじうら
を取りに来る習慣ならい がある。──
で、もし不吉ふきつ な歌占うたうら
にでもなっては、という危惧きぐ
も、皆にはあった。 そのことは、後白河も、思い出されていた。 治承四年十一月十二日の寅とら
ノ刻こく (午前四時)
は、お忘れ出来ない日であろう。 時の中宮ちゅうぐう
(建礼門院) の御産ごさん
が、ことのほか御難産と聞こえ、中宮の御母二位どの (清盛夫人) は、戻り橋の橋詰に、車を立てて、辻占を問われたという。 この橋詰には、常時、小屋を掛けている陰陽師でもいたのだろうか。その時の占には、十二人の童子が手を拍う
うちながら橋を駈け渡って来 ── 榻たふ
は何榻なにたふ 国王の榻 八重の汐路しほじ
は 波寄せの床 と、声を一つに、唱歌して去ったとか。 当時、安徳天皇の御出生には、そんなうわさもあったゆえ、やがて寿永の壇ノ浦では、御入水になったので、時人は皆、奇異な感に打たれたということである。 「・・・・おう、空は白みそめて来た、人も通る。はや、先へ行け。車を遣や
れい」 思い出は、後白河のお胸に、ふと辛いものに変わっていたらしい。 供奉ぐぶ
はゆるぎ出した。 といっても、お微行しのび
である。公卿、殿上、北面、すべてでわずか十八名ほど。 大原への道は、ふた筋あり、叡山えいざん
の西すそ、高野川に沿って行くのが本道だが、わざと、人の行くもまれな間道かんどう
へ、列は向かっていた。 松ヶ崎の西を、市原野へかけて、み車は、のべつ揺れに揺られて行く。なにしろ、ひどい悪路なのだ。この悪路や山坂の途中も計って、未明に御門を出られたらしいが、六条から大原までは、約五里ぢかい。どう急がれても、日帰りは、御困難になるのではないか。 けだし、それだけでも、今日の御幸は、生やさしい思し召し立ちではない。おん供の顔ぶれでも、なんとなくそれはわかる。 ──
左大将後徳大寺実定をはじめ、花山院かざんいん
兼雅かねまさ 、按察使あぜちの
泰通やすみち 、冷泉隆房れいぜいたかふさ
、侍従成通、桂かつら 雅頼など、大納言級ばかり六名も従うていたし、堀河中納言、花園公氏はなぞのきんうじ、梅小路三位、柳原左馬頭、吉田右大弁、そのほか北面の下臈げろう
長実、時景にいたるまで、粒よりである。みな、信寵いんちょう
の厚い者ばかりであった。 |