二度の御見
にと、西行の方から頼朝をその新御所に訪ねたのは、つい昨日の、未ひつじ
ノ刻とき (午後二時)
であった。 今日の頼朝は、もっぱら武事の質問を出した。西行も昔は滝口たきぐち
の武者として、弓矢に長じていた者であることを、営中のたれからか、仔細しさい
に聞いていたためとみえる。 けれど、西行は 「── 年来、弓矢の道は、とんと、心の外にわすれ、家の相伝そうでん
の兵書なども、在る所を存ぜず、ただ生涯の歌うた
反古ほご のみが、身に持つ覚えの物でしかありませぬ」
とのみ。それには多くを答えたがらない。 でも、滝口に伝わる弓馬の作法とか故事こじ
については 「恩問おんもん 、もだし難ければ」
と、知るところを少しは語った。頼朝は、侍座していた問注所の俊兼に 「── 記録しておけ」 と、筆をとらせた。 やがて西行は 「日も傾きましたゆえ」 と、暇を乞うた。 別殿べつでん
において、お斎とき (食膳)
をと、近習はすすめたが、西行は 「きょうのみの美食は」 と、断った。頼朝は、かさねて 「これより、どこを志こころざ
しての旅か」 と、たずねた。 西行は、事実を告げた。 彼の、こんどの東下には、じつは一つの使命があった。それは、東大寺造大仏使ぞうだいぶつしの重源上人の熱意にうごかされて、大仏殿建立こんりゅう
の勧進かんじん のため、奥州の藤原秀衡ふじわらひでひら
をたずねるべく、みちのくへ下る途中であったのだ。 秀衡と西行とは、縁は遠いが、同族であった。その交誼よしみ
から、かつての年、みちにくに行脚あんぎゃ
して、平泉に、ひと冬、すごしたことなどもある。 すでに、大仏再興の資し
には、その秀衡から東大寺へ、何度か、莫大な寄進はしていた。けれど、なおまだ、足らないのである。工はもう一段のところまで進んでいる。そのため重源の依頼を受けて奥州へ行く西行であった。 ──
と聞いて、頼朝は 「わが家の寄進は、先ごろ直々じきじき
、東大寺へ送ってある。さらば、貴僧の旅路へ、餞別はなむけ
しよう」 と、重たげな銀の小猫こねこ
を、彼に布施ふせ した。 西行は、あつく礼を述べて、衣の袖に、拝領の銀の猫をくるんで退がった。そして、新御所の門を出ると、ちょうど、秋の夕を、遊び暮れている子どもたちの群れがあった。 西行が、衣の袖に抱いていた物を見ると、子どもらは彼を取り巻き、「銀の猫、銀の猫」
と、はやしながら、 「見せて、見せて」」 と、せがみ合った。西行は相好そうごう
くずして、子どもと同じ顔になっていた。そして 「欲しいか」 というと、たくさんな手が、芒すすき
の穂みたいに、彼のまわりに戦そよ
いだ。 「では、上げよう。みんなに上げる、みんなの物だよ。喧嘩けんか
しないで、仲よくお遊び」 銀の猫をもった子どもらは、ゆるい木こ
ノ葉は 旋風つむじ
のように、秋の辻を、ころがって行った。西行の影は、もう遠くだった。なお聞こえる童歌わらべうた
を後ろに、山内やまのうち 街道の方へ、夕風に吹き送られて行くように、行く。 彼を、門外まで送って出た新御所の侍たちは、
「あら、勿体もったい なし」
と、おぞ気をふるって、内へ駆け込んだ。 「ほかならぬ二品にほん
(頼朝) の君より、直々じきじき
拝領のお品を、門外一歩、すぐ路傍の童わっぱ
へ、くれて去るとは」 「恐れを知らぬ法師もあるわ。もし、お耳にはいらば、追い討ちうけて、八つ裂きにもされようものを」 「いや、秘しておけ。秘しておけ。あれや耄碌もうろく
か、気が変なのにちがいない。さものうて、なんであんな貴い品を、切き
れ草鞋わらじ でも捨てるように、惜しみもなく、くれられるものか」 たまり部屋の侍たちは、とそのつまり、気狂い法師と、かたづけていた。そして、上聞を怖れ、人にはいうなといいながら、戯ざ
ればなしには、ついしゃべりあっていた。 |