〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/12 (火) ねこめい げつ (一)

翌日、安達新三郎は、問注所の執事室で、祐筆ゆうひつ の盛時や俊兼たちと、会っていた。
事の報告に出たのである。
俊兼は、幕府記録に、彼の言をとどめ、
「ご苦労でした」
と、簿 を閉じて、ひと言、いった。
しかし、ようなされたとはたれも言わない。公命、是非なしとしても嬰児えいじ の処分については、思うだに、たれもこころよ くはしていない風だった。
盛時が、また安達へたず ねた。
しずか 御前ごぜ は、どうしましたか」
「子を差し出した後は、構いなしとの上命のまま、昨夜、お預かりの身柄を解き、母の禅尼とともに屋敷を出ました」
「都へ帰って行ったものか」
「たぶん、さようかと、思われるが」
「では、これで、まず一儀も落着と申すもの」
「君前へは」
那通くにみち から、すでに御披露に及んでおる由。其許そこもと のお答えも、問注所の日簿にちぼ とともに、お達し申し上げておく。気づかいあるな」
三月以来の任は終わった。
安達は、久しぶりに身軽を覚えた。けれど、人の陰口は、彼の非情をよく言わなかった。彼を見る人の眼にとげ があった。安達にはそれが分かる。彼は門を閉じて、ひきこも った。
それから、半月ほど後、八月中旬ごろのことである。
その宵、たまたま訪れた客の口から、あるじ の安達は、ふと、思いがけないことを、耳にした。
客の話しに、前後をすこし補足すれば、それは、次のような事実であった。

*      *      *

頼朝の鶴ヶ岡社参は、めずらしくない。公式な神事をのぞいても、おりにふれ、そぞろ歩きの、身軽なもう でも、たびたびだった。
つい二、三日前のこと。
大鳥居から赤はしの辺りを、頼朝が、近習たち大勢と徒歩ひろい で来ると、おりふし、何かに見恍みと れていて、頼朝の来るのも知らずにいたらしい乞食法師こじきほうし が、あわてて下馬川の方へ、道を避けて行った。
姿のみすぼらしさに似ず、どこか気品のある法師の横顔が、あや し、と見えたものか。頼朝は 「 ぞ、あの旅法師の素姓を、ただ して来い」 と、扈従こじゅう の一人へすぐ命じた。
近習はだいぶ手間どってから、頼朝の前へ戻って来た。そして 「初めは、名もなき歌法師とばかり、名のりませんでしたが、問いつめましたところ、・・・・すなわち、昔は北面ほくめんさむらい にて、佐藤兵衛尉さとうひょうえのじょう義清と申したなれど、若き日に、世を捨て去り、好きな歌と旅とに、うかうか老いさらぼうたる法師西行さいぎょう と申す者なる由にござりまする」 と、復命した。
「・・・・西行とや」 頼朝は、小首をかしげ 「連れて来い」 と、ふたたび、人をやった。
そして、その日の参詣さんけい に、西行も加え、法施ほうせ も終わって、一院で休息の間に、彼を近う召して、和歌の清談、出家の動機、旅の見聞など、くさぐさな問いを頼朝から出したりして、すこぶるきょう に入ったらしい。
さて、還御かんぎょ となったので、西行も、暇を乞おうとすると、頼朝の上意として 「急ぐ旅でもあるまい。日をおいて、もいちど営中に見えよ」 とあった。
宿所も梶原の家に取らせんといわれたが、西行は、 「・・・・その儀は、かえって、迷惑に存じまする。仰せの日に、相違なく、まか りますれば:」 と、たって詫びて、当日は身ままにどこかへ立ち去った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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