〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/12 (火)  じょう じょう (三)

「どうしよう」
安達は途々みちみち 、幾たびとなく、立ち止まった。
「もし、あの法師が、ちまたへ出て、今夜のことを、口の端にでももらしたら、この安達、はどうなることか。いや、こしらえ事して、君命をあざむいたと分かれば、身ひとつの罪ではすまぬ。一族の破滅も・・・・」
と、しきりに迷った。
「そうだ、もう一度、砂丘おか へ戻って」
彼はついに、恐ろしい腹をきめた。
「老法師には、災難だが、彼の命をもらおう。せっかく、武士の情けとしてした今夜のことも、法師を犠牲の刃に駈けては、なんの慈悲か、自分の行為は、意味をなさなくなるが、こうなっては、ぜひもない。秘を守るに万全な手段を選ぶほかはない。
「うむ。眼をつぶって ──」
安達は、太刀のつばの下を、左手でそっと握った。そして元の道の方へ、勢いよく戻りかけた。
とたんに、彼は、あっと、何かへぶつかったような声を出した。ぶつかったわけではない。さっきの法師が、すぐ眼の前へ、来ていたのだった。
「おう、さきほどは」
法師は、怪しみもせず、笑顔を見せ、
「何か、あれからは、 めた心地で、眠られもいたしませぬ。ままよ、夜もよからんと、歩み出しました。おん許には、いずれへお立ち帰りでございますな」
と、親しげに話しかけてくる。
安達の答えは、しどろもどろだった。つまづいた殺意の処理がつかないのだ。
法師の方は、どこまでも、淡々たるものである。しきりに、鎌倉の繁昌やら、各所のことなどたず ねてくる。文字通りな一杖いちじょう 一笠いちりゅう 、脚は、なかなか達者らしい。波打ち際から つ風が、破れ衣をたえず吹いていて、その痩身そうしん の歩みを、後ろからたす けているかとも見える。
「東国の旅は、一再でございませぬが、鎌倉の御繁昌を見るのは、こたびが初めて。── 随所の変わりように、ただただ、驚かされるばかりです。鶴ヶ岡にも、ぜひもう でたいと存じおりますが」
安達には、耳もない。
よいほどに、あしらいながら、おりおり、故意に法師の体へ身をスリ寄せたり、またその背後をうかがって、一瞬の形相ぎょうそう を見せたりした。けれど法師の体には、すきがなかった。構えているのでもなんでもない。 うならば風身ふうしん とでもいえるものか。風とおなじな物に似ていた。
安達は、人知れぬ脂汗に濡れてしまった。歩けど歩けど、ひとり焦心あせ りを踏み乱すだけである。法師はたがて漁村の角で別れ去った。ついに安達新三郎も、手をつかねて、それを見送るほかはなかったのだ。そして、むなしく扇谷おうぎがやつ のわが屋敷へ帰って寝た。
寝てからも、夢の中に、墨のような風人が、飄々ひょうひょう と、明滅していた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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