「どうしよう」 安達は途々
、幾たびとなく、立ち止まった。 「もし、あの法師が、ちまたへ出て、今夜のことを、口の端にでももらしたら、この安達、はどうなることか。いや、こしらえ事して、君命をあざむいたと分かれば、身ひとつの罪ではすまぬ。一族の破滅も・・・・」 と、しきりに迷った。 「そうだ、もう一度、砂丘おか
へ戻って」 彼はついに、恐ろしい腹をきめた。 「老法師には、災難だが、彼の命をもらおう。せっかく、武士の情けとしてした今夜のことも、法師を犠牲の刃に駈けては、なんの慈悲か、自分の行為は、意味をなさなくなるが、こうなっては、ぜひもない。秘を守るに万全な手段を選ぶほかはない。 「うむ。眼をつぶって
──」 安達は、太刀のつばの下を、左手でそっと握った。そして元の道の方へ、勢いよく戻りかけた。 とたんに、彼は、あっと、何かへぶつかったような声を出した。ぶつかったわけではない。さっきの法師が、すぐ眼の前へ、来ていたのだった。 「おう、さきほどは」 法師は、怪しみもせず、笑顔を見せ、 「何か、あれからは、醒さ
めた心地で、眠られもいたしませぬ。ままよ、夜もよからんと、歩み出しました。おん許には、いずれへお立ち帰りでございますな」 と、親しげに話しかけてくる。 安達の答えは、しどろもどろだった。つまづいた殺意の処理がつかないのだ。 法師の方は、どこまでも、淡々たるものである。しきりに、鎌倉の繁昌やら、各所のことなど訊たず
ねてくる。文字通りな一杖いちじょう
一笠いちりゅう 、脚は、なかなか達者らしい。波打ち際から起た
つ風が、破れ衣をたえず吹いていて、その痩身そうしん
の歩みを、後ろから扶たす けているかとも見える。 「東国の旅は、一再でございませぬが、鎌倉の御繁昌を見るのは、こたびが初めて。──
随所の変わりように、ただただ、驚かされるばかりです。鶴ヶ岡にも、ぜひ詣もう
でたいと存じおりますが」 安達には、耳もない。 よいほどに、あしらいながら、おりおり、故意に法師の体へ身をスリ寄せたり、またその背後をうかがって、一瞬の形相ぎょうそう
を見せたりした。けれど法師の体には、すきがなかった。構えているのでもなんでもない。謂い
うならば風身ふうしん とでもいえるものか。風とおなじな物に似ていた。 安達は、人知れぬ脂汗に濡れてしまった。歩けど歩けど、ひとり焦心あせ
りを踏み乱すだけである。法師はたがて漁村の角で別れ去った。ついに安達新三郎も、手をつかねて、それを見送るほかはなかったのだ。そして、むなしく扇谷おうぎがやつ
のわが屋敷へ帰って寝た。 寝てからも、夢の中に、墨のような風人が、飄々ひょうひょう
と、明滅していた。 |