安達新三郎は、振り向いていた。──
声のした松の木蔭の濃い闇へ、眼をこらしたまま、そこからのそと、身を起こすらしい者の影へ、 「・・・・たれだ?」 投げ返辞をくれたまま、思わず息をころした。 呼び止めた法師は、身動きもhなはだ早速ではない。 年も年らしく思われる。白い眉毛
、鷺さぎ のような細い足腰、ようやく、歩み近づいて来て、安達の前に、 「さぞ異い
な者かと、おいぶかりでございましょうが」 と、ていねいに、そして、なお身を低めて言う。 「はからず、ここで夜を過ごしておるうち、夢現ゆめうつつ
のあいだに、ありがたいおん慈悲に盈み
ちあふれた一場いちじょう の浄土をみせていただき、御述懐ごじゅつかい
ももれ伺って・・・・どうも、このままお別れするのに忍びず、つい、お呼び止めいたしました。御諒恕ごりょうじょ
なされませ」 物ごしといい、ことばの御韻ごいん
から受ける感じ、見た通りの乞食法師こじきほうし
とは思われない。安達は、それにもまず、一抹いちまつ
の不安を先にした。 だが、もっと、彼がぎょっとしたのは、この旅法師が、さっきからの自分のここでの行為を、木蔭で、すっかり見聞きしていたらしいことだった。──
で、安達はやや突っかかり気味に。 「用とは、なんの用。府内へ帰る身、はやく言って欲しいが」 「はい、はい。お手間はとらせますまい」 いいながらも、気長な法師は、また、べつの方へ面を向けて、すぐ、ことばを続けようともしない。 その視線に倣なら
って、安達も一つ方へ眼をやった。見ると、砂丘の下から、水無瀬川みなのせがわ
の板橋へ、力なげに、とぼとぼ去って行く孤影が見える。たった今まで、この砂丘に泣き沈んでいた磯ノ禅尼であることは、すぐ分かった。 ── 今は、一切を、あきらめの涙に洗って、ひとり都へ帰って行くしかない禅尼。 法師は、かの女の孤影が、星明りにも見えなくなるのを待ってから、やがて言った。 「・・・・げにも、今宵のお立場は、生涯の御難儀でもありましたろうに、ようありがたい御処置をとられたものかなと、あの木蔭にて、伏し拝まれていたことでございました。──
さきに、ここを立ち退いた 静しずか
御前ごぜ が、再生の光に会うたのはいうまでもありますまい。いつまで続く末世の闇かと嘆かれていたわたくしなども、ああまだ世は廃すた
りきったわけではない、おん許のような御仁もおられると、人事ひとごと
ならず、うれしくて、お礼申し上げずにおられませぬ」 「はて、何を、あらぬことをば。・・・・礼など、言われる覚えはないが」 「いや、悪しゅう御推量なされますな。知りたいとも願わず、今宵の秘事を、つい知ってしまいましたものの、それを世間で語りちらすような法師でもございませねば」 「では御僧は、先刻からのことを」 「はい
──」 と言いきってから、また、 「いや、いや、野僧が眼に見、耳に聞いたと覚えたのも、草枕くさまくら
にふと見た夢か、幻などであったかもしれません。・・・・が、夢であれ、近ごろ、うれしい事の一つ。お蔭で人の世もまたおもしろしと、心あたためられました。いやどうも、お足をとめて申しわけございませぬ。おゆるしくださいましょう。平におゆるしのほどを」 重ねて、法師は、いんぎんに腰をかがめた。のみならず、そのまま、別れ去る安達の後ろ姿へ、数珠じゅず
を取り出して、拝を送っていた。 |