〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/11 (月)  じょう じょう (一)

安達新三郎は、振り向いていた。── 声のした松の木蔭の濃い闇へ、眼をこらしたまま、そこからのそと、身を起こすらしい者の影へ、
「・・・・たれだ?」
投げ返辞をくれたまま、思わず息をころした。
呼び止めた法師は、身動きもhなはだ早速ではない。
年も年らしく思われる。白い眉毛まゆげさぎ のような細い足腰、ようやく、歩み近づいて来て、安達の前に、
「さぞ な者かと、おいぶかりでございましょうが」
と、ていねいに、そして、なお身を低めて言う。
「はからず、ここで夜を過ごしておるうち、夢現ゆめうつつ のあいだに、ありがたいおん慈悲に ちあふれた一場いちじょう の浄土をみせていただき、御述懐ごじゅつかい ももれ伺って・・・・どうも、このままお別れするのに忍びず、つい、お呼び止めいたしました。御諒恕ごりょうじょ なされませ」
物ごしといい、ことばの御韻ごいん から受ける感じ、見た通りの乞食法師こじきほうし とは思われない。安達は、それにもまず、一抹いちまつ の不安を先にした。
だが、もっと、彼がぎょっとしたのは、この旅法師が、さっきからの自分のここでの行為を、木蔭で、すっかり見聞きしていたらしいことだった。── で、安達はやや突っかかり気味に。
「用とは、なんの用。府内へ帰る身、はやく言って欲しいが」
「はい、はい。お手間はとらせますまい」
いいながらも、気長な法師は、また、べつの方へ面を向けて、すぐ、ことばを続けようともしない。
その視線になら って、安達も一つ方へ眼をやった。見ると、砂丘の下から、水無瀬川みなのせがわ の板橋へ、力なげに、とぼとぼ去って行く孤影が見える。たった今まで、この砂丘に泣き沈んでいた磯ノ禅尼であることは、すぐ分かった。
── 今は、一切を、あきらめの涙に洗って、ひとり都へ帰って行くしかない禅尼。
法師は、かの女の孤影が、星明りにも見えなくなるのを待ってから、やがて言った。
「・・・・げにも、今宵のお立場は、生涯の御難儀でもありましたろうに、ようありがたい御処置をとられたものかなと、あの木蔭にて、伏し拝まれていたことでございました。── さきに、ここを立ち退いた しずか 御前ごぜ が、再生の光に会うたのはいうまでもありますまい。いつまで続く末世の闇かと嘆かれていたわたくしなども、ああまだ世はすた りきったわけではない、おん許のような御仁もおられると、人事ひとごと ならず、うれしくて、お礼申し上げずにおられませぬ」
「はて、何を、あらぬことをば。・・・・礼など、言われる覚えはないが」
「いや、悪しゅう御推量なされますな。知りたいとも願わず、今宵の秘事を、つい知ってしまいましたものの、それを世間で語りちらすような法師でもございませねば」
「では御僧は、先刻からのことを」
「はい ──」 と言いきってから、また、
「いや、いや、野僧が眼に見、耳に聞いたと覚えたのも、草枕くさまくら にふと見た夢か、幻などであったかもしれません。・・・・が、夢であれ、近ごろ、うれしい事の一つ。お蔭で人の世もまたおもしろしと、心あたためられました。いやどうも、お足をとめて申しわけございませぬ。おゆるしくださいましょう。平におゆるしのほどを」
重ねて、法師は、いんぎんに腰をかがめた。のみならず、そのまま、別れ去る安達の後ろ姿へ、数珠じゅず を取り出して、拝を送っていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next