年寄りには、ちと荷の勝った旅包みだった。それを背負い、杖をついて、いつか暗い潮風の中にいた。吹かれ吹かれ、さまよい歩いた。 つねにはすぐ眼にはいる海上数町沖の鶴ヶ岡の一ノ鳥居も、墨で刷
かれたように見えず、漁いざ り火の影もない。ただ暗溟あんめい
の中にひらめく白い波光りが、何か、生きた物をのんだ生きものの跳動のように見えた。それを悼いた
む弔歌ちょうか にも聞こえた。 ──
あれっと、よろめいて、老母は、波打ち際へ、持ち込まれかけた。黒い大きな動物が、不意にそばを掠かす
めて、稲村ヶ崎の方へ、すっ飛んで行った。・・・・馬だったかと、振り向いて、ほっとした。たれが捨てたのか、空背からせ
の馬であった。 「・・・・もしや?」 その驚きに、ある不安も、重なって来た。老母は水無瀬川の方へ、足を早め出した。 東の砂丘といった。そこの一つ松といった。老母はくたくたになっている。ともすれば、砂丘の雑草に足を絡から
みとられそうだった。 「・・・・静っ。・・・・静よっ」 呼びまわる老母の上には、巨大な松の枝が、うそぶいている。この辺り、ほかに眼をさえぎる物はない。だのに、静は見えなかった。 「おや。・・・・これは」 松の根がたで、ふとつまずいた物がある。夜目にも、さんらんたる高貴な香のする布だった。老母は、たくし上げるような手つきで拾い上げた。そして、初めは、なんとも解げ
せぬ顔していたがとつぜん、その顔を、くしゃくしゃにして、すわってしまった。腰が抜けたかの如くにである。 静が、頼朝夫妻から纏頭かずけ
としてもらった、あの卯ノ花の御衣おんぞ
だった。しかもそれは、鋭利な刃で、ずたずたに切り裂かれ、牛の草鞋わらじ
かなんぞのように、捨てられてあったのである。 「あっ・・・・あの娘こ
は。・・・・・オオあの娘こ も、和子のあとを追って死んだのであろうか?」 老母は両手を顔に当てて、さめざめと泣き出した。樹上のしずくも、その肩へ、責めたたくように、降りこぼれて来る。 「禅尼」 どこかで、人声がした。砂丘の陰に、黙然と、ひざを抱えて、夜の海と対していた武士だった。 のそ、のそ・・・・と登って来て、老母のふるわせている肩を見すえ、 「そなたの娘は、死にはしない。ただ、そなたという親とは、別な道を求めて、どこかへ行ってしまっただけだ」 「お、あなたは、安達さま。で、では、娘をここで、お見かけなされましたか」 「わしが来たとき、静しずか
御前ごぜ は、もうこの辺りにも見えなかった」 「でも、今のお口吻くちぶり
・・・・。どこかで、お会いなされたような」 「いや、那通くにみち
や景家かげいえ などと、つい先刻さっき
までは、一しょだった。静御前と、合うひまはない。たぶん、今申したような心であったろうと、察しられるまでのkと」 「そして、和子の身は」 「いうまでもない。小舟に乗せて、重石おもし
をつけ、沖に沈め参らせた。君命とは、いや、主を持つ武士とは、つらいものかな。ああ、くたびれたわい。なんだか、安達新三郎清経ほどな者も、今宵ばかりは、がっくりした」 「・・・・・・」 「泣ける者は、まだうらやましい。この先とも、君命ならば、幾たびとて、否み難い業ごう
をこの世に積まねばならぬか。そう考えると、屋敷へ帰る足も重くなった。つい、夜明けるまで、ここでひとり物を思うていようとしたが、さて、そうも行くまい。── わしにも、屋敷には、家人けにん
妻子さいし がある身だった。・・・・老婆、さらばだぞ。気をつけて、先を歩けよ」 安達は、身をめぐらして、そこを降りかけた。いや、幾足も松の木蔭を離れないうちであった。 肩に、寝菰ねごも
を巻き枕もとに、笈おい やら笠をおいて、物乞いのような寝様ねざま
を、涼風の底に沈めていた旅法師がいたのである。 安達が去ろうとすると、眼ざめていたのか、旅法師は身を起こした。そして 「── もし、もし」 と彼の背へ呼びかけた。 |