〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/09 (土) ものいわぬ四方よもけだもの すらだにも (五)

年寄りには、ちと荷の勝った旅包みだった。それを背負い、杖をついて、いつか暗い潮風の中にいた。吹かれ吹かれ、さまよい歩いた。
つねにはすぐ眼にはいる海上数町沖の鶴ヶ岡の一ノ鳥居も、墨で かれたように見えず、いざ り火の影もない。ただ暗溟あんめい の中にひらめく白い波光りが、何か、生きた物をのんだ生きものの跳動のように見えた。それをいた弔歌ちょうか にも聞こえた。
── あれっと、よろめいて、老母は、波打ち際へ、持ち込まれかけた。黒い大きな動物が、不意にそばをかす めて、稲村ヶ崎の方へ、すっ飛んで行った。・・・・馬だったかと、振り向いて、ほっとした。たれが捨てたのか、空背からせ の馬であった。
「・・・・もしや?」
その驚きに、ある不安も、重なって来た。老母は水無瀬川の方へ、足を早め出した。
東の砂丘といった。そこの一つ松といった。老母はくたくたになっている。ともすれば、砂丘の雑草に足をから みとられそうだった。
「・・・・静っ。・・・・静よっ」
呼びまわる老母の上には、巨大な松の枝が、うそぶいている。この辺り、ほかに眼をさえぎる物はない。だのに、静は見えなかった。
「おや。・・・・これは」
松の根がたで、ふとつまずいた物がある。夜目にも、さんらんたる高貴な香のする布だった。老母は、たくし上げるような手つきで拾い上げた。そして、初めは、なんとも せぬ顔していたがとつぜん、その顔を、くしゃくしゃにして、すわってしまった。腰が抜けたかの如くにである。
静が、頼朝夫妻から纏頭かずけ としてもらった、あの卯ノ花の御衣おんぞ だった。しかもそれは、鋭利な刃で、ずたずたに切り裂かれ、牛の草鞋わらじ かなんぞのように、捨てられてあったのである。
「あっ・・・・あの は。・・・・・オオあの も、和子のあとを追って死んだのであろうか?」
老母は両手を顔に当てて、さめざめと泣き出した。樹上のしずくも、その肩へ、責めたたくように、降りこぼれて来る。
「禅尼」
どこかで、人声がした。砂丘の陰に、黙然と、ひざを抱えて、夜の海と対していた武士だった。
のそ、のそ・・・・と登って来て、老母のふるわせている肩を見すえ、
「そなたの娘は、死にはしない。ただ、そなたという親とは、別な道を求めて、どこかへ行ってしまっただけだ」
「お、あなたは、安達さま。で、では、娘をここで、お見かけなされましたか」
「わしが来たとき、しずか 御前ごぜ は、もうこの辺りにも見えなかった」
「でも、今のお口吻くちぶり ・・・・。どこかで、お会いなされたような」
「いや、那通くにみち景家かげいえ などと、つい先刻さっき までは、一しょだった。静御前と、合うひまはない。たぶん、今申したような心であったろうと、察しられるまでのkと」
「そして、和子の身は」
「いうまでもない。小舟に乗せて、重石おもし をつけ、沖に沈め参らせた。君命とは、いや、主を持つ武士とは、つらいものかな。ああ、くたびれたわい。なんだか、安達新三郎清経ほどな者も、今宵ばかりは、がっくりした」
「・・・・・・」
「泣ける者は、まだうらやましい。この先とも、君命ならば、幾たびとて、否み難いごう をこの世に積まねばならぬか。そう考えると、屋敷へ帰る足も重くなった。つい、夜明けるまで、ここでひとり物を思うていようとしたが、さて、そうも行くまい。── わしにも、屋敷には、家人けにん 妻子さいし がある身だった。・・・・老婆、さらばだぞ。気をつけて、先を歩けよ」
安達は、身をめぐらして、そこを降りかけた。いや、幾足も松の木蔭を離れないうちであった。
肩に、寝菰ねごも を巻き枕もとに、おい やら笠をおいて、物乞いのような寝様ねざま を、涼風の底に沈めていた旅法師がいたのである。
安達が去ろうとすると、眼ざめていたのか、旅法師は身を起こした。そして 「── もし、もし」 と彼の背へ呼びかけた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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