「・・・・?」 静は、気がついた。うつろな眸
をさまよわせた。禅尼に介抱されていたのである。 「さ、静よ、都へ帰ろう。もう御用はすんだのじゃ。これで、そなたも、あきらめがついたことであろう。そなたの身には怪我はない。宵の間に、ここを立ち出で、次の宿で、身も心も休めたがよい。・・・・のう、静。杖も、笠も、ここにある。わしの杖は、そなた一人じゃ。そなたを措お
いて、たれをこの世の杖と恃たの
もう」 老母は、屋の内から、旅包みなど持って出た。日ごろ、蓄えていた諸家からの餞別はなむけ
物や、わけて拝領の御衣おんぞ
など、大事そうに、ひと括から
げとして、静をうながすのであった。 「・・・・ええ」 と、唇くち
のうちのうなずきを微かす かに見せて、静は
「・・・・あれから、どれほど経ったのでしょう?」 「あれからとは」 「和子わこ
を奪った人たちが、ここを出てから」 「なんのまあ、たった今のこと、時といえるほども、まだ過ぎてはおらぬ」 「では ── 」 と、かの女は地にすわり直した。そして、老母へこう告げた。 あきらめるにも、このままでは、あきらめきれぬ。せめて、由比ヶ浜まででも行ってみたい。 そこで、和子をもう一と目見ることが出来なかったら、渚なぎさ
から念仏でもお称とな えして、世の無慈悲と、母の無力を、やみからやみへ葬ほうむ
られ去る和子へお詫わ びしたい。
「・・・・ですから、おかあさんは、後から浜へ来てください。いえ、そういっても広すぎる。水無瀬川みなのせがわ
のぐち、東の砂丘おか の一ツ松で、静はお待ちしておりまする。そこからともに、都へ帰ることにしましょう」
と言うかの女は、もうすっかり冷静に見えた。 ── と聞いて、老母も眉を開いた。では、早く行くがよいと、すすめ抜く。だが、女の足、わけて産後の身である。老母とともに、厩うまや
の小者に、事情を訴え、馬を借りえて、静は、自分で裏の木戸までひいた。 「・・・・思えば、鶴ヶ岡で舞うた時、たくさんな人に顔を見られています。ふと、人目に怪しまれぬものでもない。被衣かずき
代りに、拝領の御衣おんぞ をおかしくださいませ」 かの女は、老母の手からそれを取って、黒髪の上から被かず
いた。かつて、難波なにわ への道や、雪の吉野へ分け入ったりして、駒こま
の手綱には、覚えもあった。 「では、おかあさん。・・・・後で」 「オオ、きっと、待っていやいの。水無瀬川みなのせがわ
の川ぐちというたの」 「砂丘おか
の一ツ松です。お忘れのう」 「なんで忘れてよいものぞ。・・・・オオあぶない。・・・・あれ、その駒は、荒れ駒か。気をつけて行きやいのう。・・・・静よ、静よ」 閏うるう
七月二十九日。月はない。浜の方も、町辻も、宵のやみだった。 ── そのやみへさして、踊り消えて行った一心な駒の影を、老母はさすが、可哀そうなと、身伸みの
びをして、見送っていたが、やがて、下部屋しもべや
の者たちへ、長の礼や別れをのべて、かの女もまた、とぼとぼと、裏門の外へ歩み出した。 |