〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/09 (土) ものいわぬ四方よもけだもの すらだにも (四)

「・・・・?」
静は、気がついた。うつろな をさまよわせた。禅尼に介抱されていたのである。
「さ、静よ、都へ帰ろう。もう御用はすんだのじゃ。これで、そなたも、あきらめがついたことであろう。そなたの身には怪我はない。宵の間に、ここを立ち出で、次の宿で、身も心も休めたがよい。・・・・のう、静。杖も、笠も、ここにある。わしの杖は、そなた一人じゃ。そなたを いて、たれをこの世の杖とたの もう」
老母は、屋の内から、旅包みなど持って出た。日ごろ、蓄えていた諸家からの餞別はなむけ 物や、わけて拝領の御衣おんぞ など、大事そうに、ひとから げとして、静をうながすのであった。
「・・・・ええ」 と、くち のうちのうなずきをかす かに見せて、静は 「・・・・あれから、どれほど経ったのでしょう?」
「あれからとは」
和子わこ を奪った人たちが、ここを出てから」
「なんのまあ、たった今のこと、時といえるほども、まだ過ぎてはおらぬ」
「では ── 」 と、かの女は地にすわり直した。そして、老母へこう告げた。
あきらめるにも、このままでは、あきらめきれぬ。せめて、由比ヶ浜まででも行ってみたい。
そこで、和子をもう一と目見ることが出来なかったら、なぎさ から念仏でもおとな えして、世の無慈悲と、母の無力を、やみからやみへほうむ られ去る和子へお びしたい。 「・・・・ですから、おかあさんは、後から浜へ来てください。いえ、そういっても広すぎる。水無瀬川みなのせがわ のぐち、東の砂丘おか の一ツ松で、静はお待ちしておりまする。そこからともに、都へ帰ることにしましょう」 と言うかの女は、もうすっかり冷静に見えた。
── と聞いて、老母も眉を開いた。では、早く行くがよいと、すすめ抜く。だが、女の足、わけて産後の身である。老母とともに、うまや の小者に、事情を訴え、馬を借りえて、静は、自分で裏の木戸までひいた。
「・・・・思えば、鶴ヶ岡で舞うた時、たくさんな人に顔を見られています。ふと、人目に怪しまれぬものでもない。被衣かずき 代りに、拝領の御衣おんぞ をおかしくださいませ」
かの女は、老母の手からそれを取って、黒髪の上からかず いた。かつて、難波なにわ への道や、雪の吉野へ分け入ったりして、こま の手綱には、覚えもあった。
「では、おかあさん。・・・・後で」
「オオ、きっと、待っていやいの。水無瀬川みなのせがわ の川ぐちというたの」
砂丘おか の一ツ松です。お忘れのう」
「なんで忘れてよいものぞ。・・・・オオあぶない。・・・・あれ、その駒は、荒れ駒か。気をつけて行きやいのう。・・・・静よ、静よ」
うるう 七月二十九日。月はない。浜の方も、町辻も、宵のやみだった。
── そのやみへさして、踊り消えて行った一心な駒の影を、老母はさすが、可哀そうなと、身伸みの びをして、見送っていたが、やがて、下部屋しもべや の者たちへ、長の礼や別れをのべて、かの女もまた、とぼとぼと、裏門の外へ歩み出した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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