〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/09 (土) ものいわぬ四方よもけだもの すらだにも (三)

乳の香をこめたほの暗い几帳きちょう の陰に、静は、なおうつ伏したままでいた。離さじと、珠を抱いたままでいた。
老母は、その乱れ髪へ、かき口説いた。おろおろと、泣きもした。また手を合わせて、頼みもした。が、そのいうところは、根本から、静の抱く愛と、老母の愛との、相違を示した。血は母娘おやこ でも、愛の一点では、ふたりはついに他人であった。
子の静に、そのことが、今夜ほどはっきりしたことはない。かの女は、この世で、せめてとたの んでいたもう一人の肉親までも、今は心から失ってしまった。
が、もう乱れもしない静であった。青白く澄みきった面を上げて。
「おかあさん、では、どうしても、仰っしゃるようにして欲しいのですか。あなたは、静がふところのお子を、人手に渡せば、それで御満足なのですか」
「オオ、切なかろうがの・・・・」
すると、かの女は、そういう老母を、あわ れむように、また、さげす むように、しげしげと見ていたがとつぜん、顔の涙を振り散らして、叫んだ。
「いやです。あなたは、子を売ることもおできでしょうが、静は、子を売る心にはなれません。このことばかりは、いくら、手を合わせて仰っしゃっても」
かの女は、よろめき起った。老母がいなかった間に、身なりもかえていたとみえる。 のひもで、裾を高く上げていた。そしてどういう覚悟の下にか、子を抱いたまま、縁の から、庭へのがれ出ようとした。
もとより、安達の家来が、常時じょうじかき の番に立っている。老母も仰天して、人びとを呼びたてた。すぐ書院からも、わらわら梶原たちが駆けて来る。たちまち、その人影と人影とは、一つ所にもつれ合った。そして、なんともいえない本能の悲鳴がそこから聞こえた。肉を引き裂かれた生きものの声だった。いうまでもなく、その狂乱は、静のものであり、火みたいな絶叫は、無理無態に乳をモギ離された、小さい肉塊の怒りであった。
箱輿はこごし っ、箱輿がよいぞ。安達は、人に怪しまれぬよう、お子を抱いて、箱輿に隠れて行け」
「遠くもない由比ヶ浜。われらは、すぐ後から、駆けつづこう」
「ともあれ、浜へ急げ。後ろの悲鳴に かれるな」
どやどやと、裏門を出て行く跫音あしおと がする。── 蹴放けはな されて、そのまま、あとのやみに、喪神そうしん していた静にも、遠ざかる跫音と、夜の海鳴りが、地の肌からじかに、たましいには聞こえていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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