乳の香をこめたほの暗い几帳
の陰に、静は、なおうつ伏したままでいた。離さじと、珠を抱いたままでいた。 老母は、その乱れ髪へ、かき口説いた。おろおろと、泣きもした。また手を合わせて、頼みもした。が、そのいうところは、根本から、静の抱く愛と、老母の愛との、相違を示した。血は母娘おやこ
でも、愛の一点では、ふたりはついに他人であった。 子の静に、そのことが、今夜ほどはっきりしたことはない。かの女は、この世で、せめてと恃たの
んでいたもう一人の肉親までも、今は心から失ってしまった。 が、もう乱れもしない静であった。青白く澄みきった面を上げて。 「おかあさん、では、どうしても、仰っしゃるようにして欲しいのですか。あなたは、静がふところのお子を、人手に渡せば、それで御満足なのですか」 「オオ、切なかろうがの・・・・」 すると、かの女は、そういう老母を、憐あわ
れむように、また、蔑さげす むように、しげしげと見ていたがとつぜん、顔の涙を振り散らして、叫んだ。 「いやです。あなたは、子を売ることもおできでしょうが、静は、子を売る心にはなれません。このことばかりは、いくら、手を合わせて仰っしゃっても」 かの女は、よろめき起った。老母がいなかった間に、身なりもかえていたとみえる。裳も
のひもで、裾を高く上げていた。そしてどういう覚悟の下にか、子を抱いたまま、縁の簀す
の子こ から、庭へのがれ出ようとした。 もとより、安達の家来が、常時じょうじ
、垣かき の番に立っている。老母も仰天して、人びとを呼びたてた。すぐ書院からも、わらわら梶原たちが駆けて来る。たちまち、その人影と人影とは、一つ所にもつれ合った。そして、なんともいえない本能の悲鳴がそこから聞こえた。肉を引き裂かれた生きものの声だった。いうまでもなく、その狂乱は、静のものであり、火みたいな絶叫は、無理無態に乳をモギ離された、小さい肉塊の怒りであった。 「箱輿はこごし
っ、箱輿がよいぞ。安達は、人に怪しまれぬよう、お子を抱いて、箱輿に隠れて行け」 「遠くもない由比ヶ浜。われらは、すぐ後から、駆けつづこう」 「ともあれ、浜へ急げ。後ろの悲鳴に惹ひ
かれるな」 どやどやと、裏門を出て行く跫音あしおと
がする。── 蹴放けはな されて、そのまま、あとのやみに、喪神そうしん
していた静にも、遠ざかる跫音と、夜の海鳴りが、地の肌からじかに、たましいには聞こえていた。 |