〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/09 (土) ものいわぬ四方よもけだもの すらだにも (二)

「安達としたことが、いつまで、何を猶予」
書院の三名は、しびれを切らしていた。残暑の西陽にしび がたまらない。胸毛は、ふいてもふいても、汗になる。
「あちらへ、お座替えくだされませ。ここは、なんとも西陽のうちは」
老臣が来て、うながした。三名は、座を立ちながら、
「おあるじ は、どう召されたか。余りに長過ぎる。いちど、これへ呼んで来てもらいたいが」
と、仏頂面ぶっちょうづら して言った。
すぐ、安達は戻って来た。疲れきった態である。一刻いっとき あまりも、さと してみたが、静は、死んでも子は離さぬと嘆くばかり。自分も、もう全く気力が尽きた。たれか代ってくれと、彼は言う。
「はて、そんな嘆きを聞いてやるから、つけ上がるのだ。四の五をいわせず・・・・」
梶原景家かじわらかげいえが、舌打ちしてののしると、藤那通とうのくにみち が、あわてて制した。
「いやいや、めったな腕立ては、せぬがいい。鶴ヶ岡では、諸人の讃仰をうけ、その舞に、涙を流した者も多い。また、御簾中からも、卯ノ花の御衣おんぞ まで賜わっておる者。── それだけに、世上への外聞、気をつけて致せとの仰せだった。下手をしたら、落度とおしかりをうけようぞ」
手荒もできず、説得も効なしとすれば、何か、一と思案のほかはない。
いつか木蔭に、涼風が動きそめ、ひぐらし のわびしい声に、あちこちの灯が濡れる。
宵に入っても、灯影が見えないのは、木立の奥の一棟ひとむね だけだった。── こなたの書院では、一応夕餉ゆうげ の膳についていたが、梶原景家かげいえ が、やがて言った。
「むむ、よい思案がある。磯ノ禅尼をこれへ呼び、とくと利害を言い聞かせ、老母の口から、静に因果を含ませたら、親思いな静、いやとはいい通せまい」
「なるほど、話せば話のわかる禅尼、あれなら脅しもきくし、欲にも動こう。── それよ、それに限る」
まもなく、禅尼は呼ばれて来た。
そして、この策は、図に当った。というよりも、老母は鎌倉へひかれる前から、すでに、静とは、心の向きが違っていた。それも娘の行く末を思えばこそだが、 「堀川のころはもう昔の夢、いつまで、夢を見ておいででない。もいちど、君立ち川の灯に返り咲いて、母に安心させておくれ」 とは、おりおりもらしていたことだった。
だから静のお産を見ても、未来へかけて、判官義経のお子と期待する気もなかったし、孫として抱く愛着も生じなかった。むしろ当惑があっただけである。
「はい、はい。・・・・おまかけおきくださいませ」
老母は、一同のまえに、のみ込んで見せた。
「親には優しいあの 、まだこの年まで、わたくしにそむ いて、たてつき通したためし はございませぬ。どのようにもいいきかせ、嬰児あかご は、お手許へ差し上げまする」
自信を持って、老母は産屋へ戻って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next