〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/09 (土) ものいわぬ四方よもけだもの すらだにも (一)

・・・・いやです。いやです。
たとえ、台命であろうと、この和子わこ は、離しません。死んでも離しませぬ。
和子は、わらわの産んだものです。いえ、いえ。父君があります。母だけのお子でもない。
頼朝公のおことばは、あなた方には、君命でしょうが、この和子に、なんの君恩がありますは。
余りといえば、無慈悲です、非道です。家もないちまたの餓鬼や無頼ぶらい と呼ばれる者のあいだでさえも、そんな人がいるとは、聞いたこともありません。
天下を べ給うて、世直しの英主みたいに、民百姓から待たれている頼朝公が、蔭では、無力な女子どもに、そんな無情を、どうして、なさるのでしょう。
わが良人つま への、追捕ついぶ にしても、なぜかのきみ が、反逆人といわれるのか、分かりません。その不当を、世間が黙っているのは、ただただ、御権力がこわ いからです。義経の君が悪うて、おん兄君が正しいとは、たれも思ってはおりますまい。それさえあるに、襁褓きょうほう (むつき) のうちの子まで奪って、海へ捨てよとは、なんたる御処置か。
── どうぞ、おすがりしてください。和子のお命だけは、助け給えと、おん涙に訴えてみてください。
頼朝公がおきき入れなくば、政子のおん方へ。
聞くところによれば。
お二方の間にも、大姫と仰っしゃる、妙齢としごろ な姫ぎみが、おありです。── 過ぐる年のころ、木曾どのの嫡子を、人質にとって、柳営におかれたことがあったでしょう。そして、その義高どのと、姫ぎみとが、幼い初恋に結ばれたのを、御存知でもないことか、よく知りながら、父の頼朝公には、木曾滅亡の後、すぐ御家臣をさし向けて、姫が行く末の良人おっと と慕う義高どのを、容赦もなく、お首にしてしまわれたそうです。
姫は一時、食さえ たれて、世のたの しみも見失い・・・・わが父母ほど無情なお人はないと、口癖にもお恨みをいい暮して嘆き沈まれたとか。そして、今も今とて、南御堂みなみみどう の冷たい御一房に、先ごろから、おこも りのままとも聞いておりまする。
さしもの頼朝公も、その姫ぎみには、常にお胸を み悩んで、大姫ぎみのこととしいえば、すぐ涙をうかべるほど、御後悔の念、切なげなお姿を、人にもお見せ遊ばすとか・・・・・。
とすれば、つゆ親心もないお方とは思われません。まして、御台所さまには、ひとしお、母なるものの心はお分かりでございましょうに。
どうぞ、たれもおなじなその親心へ、この静の思いを、お訴えしてみてください。
お願いします。気が狂ったのではありません。けれど、死にもの狂いのおすがりです。── あんと仰っしゃろうが、この のお子は、離しません。離しません。
「・・・・・・・」
無情な宣告に抗して、静は、叫び続けた。
いちどは、血の色をひき、そのまま絶え入りそうであったが、さめざめと泣いたあと、われに返ると、死力の感じられる哀訴を、ふるい出した。
いうところの道理ことわり や、また、怒るがごとき、そのまな じりの紅を見ては、安達新三郎も、どうさと すべきか、生なかな言葉など、われに恥じられて、口にも出せない。
「・・・・・・・」
そうして、さっきからの安達は、かの女の慟哭どうこく の前に、首うなだれて、ただ、じっといただけだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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