頼朝の柳営
、大蔵谷おおくらやつ の新御所へ伺候し、奥祐筆の那通えおとおして、静の安産と、また、男子出生の由を、届け出た。 那通は、彼へ、 「このことは、公おおたけ
ならぬ御内意のもの、おりをうかがってお耳へ達しておこう。・・・・ちょうど今日は、因幡いなば
どの (大江広元) が都から帰って、北条殿やそのほかと、御前において、何か、こみ入ったお話のようでもあれば」 と、奥の様子を見て言った。 そして、なお、 「このところまた、判官どのの詮議せんぎ
と、所在の謎について、在京の左典厩さてんきゅう
どの (一条能保よしやす
) やら、院との間にも、明け暮れ、頻繁ひんぱん
なお使いの遣や り取りなのだ・・・・。そうしたおりもおり、当とう
のお尋たず ね人びと
たる者の胤たね が、この鎌倉で産まれ落ちるとは、さても、世は皮肉」 と、ささやいたりした。 薄ら笑う彼に、安達は何か、むかつきを覚えた。多年の親友である彼が、急に相容れない異質みたいに思われた。 「では、後刻なりとも、よしなに上聞のほどを」 とのみで、安達は、営中を退った。 静は、まだ何も知るまい。そう思うにつけ、ひとつ邸内にいることとて、見まいとしても、初産後の
── かの女の哺乳ほにゅう の姿は、朝夕となく眼に入る。嬰児あかご
の声が耳につく。 「頼朝公と判官どのとの、おん仲が、こうでなければ」 と、思いやらずにいられない。 深夜、ふと産屋の方でする泣き声には、
「── 父よいずこに」 と、無心が求める絶叫が感じられる。安達とて、人のこの親。たまらない夜々だった。 ── 沙汰はなく、そのまま、半月ほど過ぎた。 しかし、頼朝が忘れていたわけではない。 やがて閏うるう
七月も、終わりかけた、月の二十九日。内示が下って、 「── 反逆人義経の胤たね
、男子とあっては、将来の禍因かいん
。芽のうちに摘つ むを可よし
とする。襁褓きょうほう (むつき)
にくるんで、由比ヶ浜に投げ捨てよとの御諚ごじょう
でござる」 と、使者那通くにみち
に、検視の八田太郎はったのたろう
朝重ともしげ 、梶原三郎かじわらのさぶろう景家かげいえ
たちが、安達に屋敷へ臨んで、厳達した。 それも、 「こよいの、うちに」 と、事も急な、厳命なのだ。 「なお、静と禅尼の身柄は、即刻、当家を放ち、都へ追っ返すべし
── との仰せでもあった」 と、これは梶原景家の付け加えである。 安達には、意外でもなんでもない。 ただ、ひとごとならぬ同情と義憤に、その面を少し青白ませただけである。だから言下に、 「心得申した」 とは答えたものの、どこかに、業腹ごうはら
な語気がないでもない。その語気で、 「── とくと、御諚を静に申し聞かせて、得心させますれば、その間、これにて御休息ねがいたい」 と、彼らを客書院におく、安達一人だけで、北庭の産屋の内へ、その是非なき君命を言い渡すべく、出て行った。
|