〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/08 (金) しゅつ しょう とどけ (二)

すぐ、夏であった。
おそらく安達新三郎は、上命がふくむ言外の意味までは、静へ、告げ得ずにいたのではないか。
(女子なれば、構いないが、出生の子が男なれば、処分を要する)
という頼朝の底意は、読めている。
「ああ、つらいお役目をこうむ ったものだ。こうして一つ軒に、静御前が起臥おきふし を、幾月も見ておれば、人として自然人情を覚えずにはおれぬ。まして、なんの罪もとが もない女性」
安達までも、なにか日々、たの しめなかった。── 主命絶対な、武士なる者の仕えが、彼の胸に、今ほど嫌厭けんえん をもたせたことはあるまい。
産まれるものが、やがて産まれてみないうちは、どっちともいえないまでも、なんで、分娩ぶんべん の前に 「── もしや、男の子のばあいは」 などと、むご い予告が下せよう。それが、妊婦の心身に、どう響くかを思えば、安達には、とても、仔細しさい を告げるには忍びない。
しかも、静は、初産ういざん でもある。
それの経験を持たない女性には、産むということに臨む覚悟だけでも、異常な鋭感や、準備の本能を、 ぎすますものと、聞いている。すでに、青葉も す土用の暑さを、肩で息づきながら、几帳きちょう の蔭に、ひそと起き している静のこのごろの姿は、全くそれであった。
── 何かでふと、不用意に、そこの細殿へ、安達が足音を近づけたりするおりなど、ちょうど、巣籠すごも る白鳥かのように見える の内の影が、きまって、きっとこなたへ眼をそそぐ。
黒髪のかげ がれた肩の せといい、眼のくままゆ にただよう哀れなけわ しさといい、安達は、こわ いような、生きものの気魄きはく と、本能の凄美に、ぎょっとさせられることがままあった。
七月にはいった。
閏年うるうどし なので、七月が二度かさなる。その月早々。
産婆は、安達の耳へ、
「はや、御臨月ごりんげつ ゆえ、いつとも知れませぬ」
と、注意した。
その前から、邸内の地をそう して、安達は産屋うぶやしつら えを大工に急がせていたのである。
静は、起居を移して、そこにこも った。
「・・・・あわれ、女子であれよ。産まれるお子が、女子でさえあれば」
と、安達は人知れず、祈っていた。
── だが、月満ちて、産まれた子は、男であった。
「まあ、まあ。たま のような、 さまでいらっしゃいまする」
何も知らない産婆は、産み殻となった黒髪の人へも、産屋の軒へうかがいに来た安達新三郎へも、大手柄でも触れるように言った。
安達は黙然と、母屋おもや のわが居間へ帰った。北庭を隔てたかなたで、世の光に初めて触れた肉塊がしきりに、シャ れた呱々ここ の声を振りしぼる。安達は、暗い顔を まして、
「ああ、ぜひもない。さっそく、お聞こえに達しておかねば」
馬をひかせて、彼はまもなく、屋敷を出た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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