すぐ、夏であった。 おそらく安達新三郎は、上命がふくむ言外の意味までは、静へ、告げ得ずにいたのではないか。 (女子なれば、構いないが、出生の子が男なれば、処分を要する) という頼朝の底意は、読めている。 「ああ、つらいお役目を蒙
ったものだ。こうして一つ軒に、静御前が起臥おきふし
を、幾月も見ておれば、人として自然人情を覚えずにはおれぬ。まして、なんの罪も科とが
もない女性」 安達までも、なにか日々、愉たの
しめなかった。── 主命絶対な、武士なる者の仕えが、彼の胸に、今ほど嫌厭けんえん
をもたせたことはあるまい。 産まれるものが、やがて産まれてみないうちは、どっちともいえないまでも、なんで、分娩ぶんべん
の前に 「── もしや、男の子のばあいは」 などと、酷むご
い予告が下せよう。それが、妊婦の心身に、どう響くかを思えば、安達には、とても、仔細しさい
を告げるには忍びない。 しかも、静は、初産ういざん
でもある。 それの経験を持たない女性には、産むということに臨む覚悟だけでも、異常な鋭感や、準備の本能を、研と
ぎすますものと、聞いている。すでに、青葉も蒸む
す土用の暑さを、肩で息づきながら、几帳きちょう
の蔭に、ひそと起き臥ふ している静のこのごろの姿は、全くそれであった。 ──
何かでふと、不用意に、そこの細殿へ、安達が足音を近づけたりするおりなど、ちょうど、巣籠すごも
る白鳥かのように見える簾す の内の影が、きまって、きっとこなたへ眼をそそぐ。 黒髪の翳かげ
に削そ がれた肩の痩や
せといい、眼の隈くま の黛まゆ
にただよう哀れな険けわ しさといい、安達は、恐こわ
いような、生きものの気魄きはく
と、本能の凄美に、ぎょっとさせられることがままあった。 七月にはいった。 閏年うるうどし
なので、七月が二度かさなる。その月早々。 産婆は、安達の耳へ、 「はや、御臨月ごりんげつ
ゆえ、いつとも知れませぬ」 と、注意した。 その前から、邸内の地を相そう
して、安達は産屋うぶや の設しつら
えを大工に急がせていたのである。 静は、起居を移して、そこに籠こも
った。 「・・・・あわれ、女子であれよ。産まれるお子が、女子でさえあれば」 と、安達は人知れず、祈っていた。 ── だが、月満ちて、産まれた子は、男であった。 「まあ、まあ。珠たま
のような、男お の子こ
さまでいらっしゃいまする」 何も知らない産婆は、産み殻となった黒髪の人へも、産屋の軒へうかがいに来た安達新三郎へも、大手柄でも触れるように言った。 安達は黙然と、母屋おもや
のわが居間へ帰った。北庭を隔てたかなたで、世の光に初めて触れた肉塊がしきりに、シャ嗄が
れた呱々ここ の声を振りしぼる。安達は、暗い顔を醒さ
まして、 「ああ、ぜひもない。さっそく、お聞こえに達しておかねば」 馬をひかせて、彼はまもなく、屋敷を出た。 |