〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/08 (金) しゅつ しょう とどけ (一)

静は、一期いちご の大難を切り抜けたような疲れを、直後に覚えた。
まず無事に、どころではなく、その日の誉れや話題を、身に集めた形である。拝領の御衣おんぞ を、母の禅尼に持ってもらい、輿こし の内もうつつに、元の安達屋敷へ退がった。
「やれやれ、よう舞ったわのう。ようしてくれたぞよ、静」
帰りつくなり、母の禅尼は、もともとからの娘自慢を、有頂天にして 「さすがは、しずか 御前ごぜ かな、都一といわれた白拍子かなと、今日の鶴ヶ岡では、もうもう めたたえぬお人はなかった。・・・・わけて、御簾中ごれんちゅう の覚えもめでたく、このような纏頭かずけ まで、いただいて帰るとは」
さっそく、老母は、衣桁いこう をひろげて、薄青地に銀摺ぎんず りの、はな御衣おんぞ を、それに張りかかげて、見恍みと れた。
「なんとまア、見事な女房衣にょうぼうごろも であろう。御台所様のお好みか、あで といい品の さ。さぞ、そなたには似合うであろうに・・・・。はて、そなたは、あんで、うれしそうな顔もせぬのか」
「ほっとしたせいでございましょう。ただもう今は」
「オオ、そうか。思えば、むりもない。のう静。麻鳥あさとり どのがくれたお薬。あれでも んでおいたらどうぞ?」
よくよくであったとみえる。静は、その宵初めて、麻鳥の薬を用いた。そして 「わがままですが・・・・」 と詫びて、先へ臥床ふしど へはいった。
薬の効か、深々と、快い眠りにくるまれた。いつもかの女は、枕につく前、 「── 夢の中にでも、かの君に」 と、願って寝た。だが、夢すらなかなか、願いはかなえてくれなかった。
問注所の吟味もすみ、鶴ヶ岡における頼朝夫妻の一見も終わった以上、静母子の宥免ゆうめん は、当然、もう数日のうちと、たれからも見られていた。
静の宿へは、心ある御家人たちから、餞別はなむけ の物やら、何かのこころざし が、しきりに届けられた。
また中には、いつかの梶原の三男景家かげいえ のように、若殿輩わかとのばら を誘いあって 「── ぜひ宴を設けて、 しずか 御前ごぜ を、一夕いっせき ひきあわせ給え」 と、申し入れて来たりするが、あるじ の安達は、前にも りているので、一切そんな騒客の物好きには応じない。
だが、そういう物好き組や、蔭ながらの同情者も、ある上命が、安達の門へ降ったと知ると、とたんに足を絶ってしまった。
急に、宥免は、取り止めになったという。そして、こういう頼朝の意が、藤判官代とうのほうがんだい那通くにみち の口上をとおして、安達へ通達されていた。
「── 静どのには、妊娠中くみごもりちゅう であるそうな。たぶん鶴ヶ岡の日、御台所のおん眼にとまったものであろう。御赦免の延びたわけは、疑いもなくそのためじゃった。・・・・今日、とつ としての仰せ出には、静御前が身、月満ちて身二つと相なるまで、なお、安達の屋敷に、預かりおけ。そして、産み落したる子が、女子なれば、構いなし。もしまた、男子なれば、沙汰改めて、別儀に及ばん ── という御諚ごじょう でおざった。なおなお、当分のお世話、大儀ながらお抜かりのないように」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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