義経は、四月上旬のころ、奈良にいた。 東大寺の得業
、勧修房聖光の一院に、前月以来、匿われていたのである。 これへ、潜行する前。 伊賀山中で、ほかの者と別れ、奈良では、武蔵坊たち、六名の朗従しか連れていなかった。 その間、勧修房聖光は、ひそかに二、三度上洛している。 九条家の家司けいし
、木工頭もくのかみ 範李のりすえ
と、密々の連絡をとって、義経の身を、一時、どこよりも安全な院中に隠そうとするための奔走ほんそう
らしい。 後白河の御本心や、またその後の、院中の情勢などな、混沌こんとん
としていて、外部からは、よく分かるはずもなかった。 けれど、義経の望みは、今はただ、そのお一方のお力のみ仰いでいた。── 後白河のお口ききだけが、兄頼朝の誤解をといて、その怒りをなだめてくれる唯一な最上な道と頼んでいたのである。 一方。 静の消息も、都の風聞を持ち帰った、聖光の口から聞いていた。 「ああ、さては、正近や有綱たちの一策も、むなしかりしか・・・・」 静奪回のため、伊賀で別れた面々の失敗も、それで分かったが、彼らの生死は、まるきり知れない。 「こう、ちりぢりに、別れ果てては」 ようやく、彼も、潜伏に倦う
んでいた。 聖光は、先ごろから、また都に出ていて、不在だった。── その朝は早暁から、奈良じゅうの鐘が、なんとなく、あいあいと、温かな慈悲の音を、仏都の空に、揺り揚げていた。 「いつしか、四月八日。今日は釈尊しゃくそん
の誕生会たんじょうえ でございましたな」 弁慶は、亡母はは
のさめ女じょ の供養に、勧修房の内陣ないじん
で一巻の経を誦よ み、義経の室へ来て、そこの小机の上にも、銀の小観音が置かれてあるのを見て、 「おお、殿にも、御念誦ごねんず
でござりましたか」 と、そばへすわった。 義経は、淋しげに、苦笑して。 「不幸を、亡母はは
へ詫わ びていたところだ。──
武門、それへ奔はし ることを、あんなにまで、いましめ抜いていた亡母はは
。それを裏切っただけでも、わしのこうあるのは、自然の冥罰みょうばつ
というものであろう」 「やめましょう。おふくろの話となると、この弁慶も、たまりませぬ。それよりは、なんとうららかな空。寺々の花祭りも、さぞ賑おうておりましょうわい」 「弁慶、供とも
せぬか」 「どちらへ」 「そっと、大仏殿だいぶつでん
の誕生会たんじょうえ に詣もう
でたい」 「それや、よろしゅうございましょうが、今日の人出、いかがなもので」 「いやいや、雑踏なれば、なお人目に立つまい。余の者は連れず、二人だけで」 僧形の弁慶には、変装も要らなかった。義経は、藺笠いがさ
をかぶり、粗末な狩衣かりぎぬ
に、ワラ草履という身軽さで、ぶらと、裏門の藪道やぶみち
から出て行った。 おなじ東大寺境内である。百歩も歩くと、すぐ、工事中の大仏殿の大足場が宙に仰がれる。 かつて、炎上の厄に遭った盧遮那仏るしゃなぶつ
も、今は再建されかけている。 山のごとき仏体のお首から肩の辺までは、もう、鍍金ときん
も仕上がりかけていた。その光明は、この世の平和と供に ── という華厳けごん
の弘誓ぐぜい をこの世に生みかけているものに見える。けれど、外部のサヤ堂、つまり大仏殿だいぶつでん
は、まだ未完成で、巨大な足場に囲まれていた。 その建造にも、まだ莫大ばくだい
な費用がかかる。そのため、建立勧進こんりゅうかんじんの同行が、諸国諸道にわたって、一紙半銭の寄進を集めに歩いているとか。奥州の藤原秀衡ふじわらひでひらなどは、沙金さきん
の産地とて、有力な大檀家おおだんか
の一人であるとか、聞こえていた。 ── 人ごみの中を、義経は、縫い歩いていた。祈念をすまし、花御堂に香を上げ、何か、久しぶり、一庶民となった気やすさに、今の危険な身も、つい忘れていたのである。 「や。判官どのだ」 往来の眼の一つが、キラと、彼の藺笠いがさ
の内をのぞいて、燕つばめ のように、どこかへ、影を翻かえ
して行った。 六波羅の鬼、北条{仗ほうじょうけんじょう時定ときさだ
の配下だったのか。── 義経は何も気づいていない。── 弁慶とともに、勧修房へ帰って行くその後ろ姿へ、すでに、さっきの男だけでなく、放免ほうめん
(密偵) ていの者幾人もが、見え隠れに、尾行していた。 仏縁仏果の日というのに、なぜか、彼には凶わる
い日ひ であった。 いや、危険は、彼だけに迫っていたのではない。 奈良の空、鎌倉の空。 通かよ
いあう何ものも二人の間にはなかったものを、魔は、同じ日の同じ時刻のころ、鶴ヶ岡の、静の身へも、はい寄っていたのであった。 |