〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
静
(
しずか
)
の 巻
2014/08/06 (水)
鶴
(
つる
)
ヶ
岡
(
おか
)
悲
(
ひ
)
曲
(
きょく
)
(二)
「はて、それは困る。これまで、推参いたしながら、それでは、この安達、腹でも切るしか立つ瀬はない」
と、安達は、たって頼むし、
那通
(
くにみち
)
も、
「じつは、今日の御社参に、都で名高い静御前が舞をも、かたがた御覧ありたいとは、前々から
思
(
おぼ
)
し
召
(
め
)
しであったのじゃ。しかも、おすすめありしは、ほかならぬ
御台所
(
みだいどころ
)
。──
二品
(
にほん
)
の君と御台所が、こうおそろいの晴れ場所で舞うとは、舞姫一代の誇りとは思し召さぬか。否と仰せあっては、お身の
不為
(
ふため
)
、われらも当惑、
御諚
(
ごじょう
)
どうあっても、お受けしていただけねば」
と、きつい顔で、ことばだけは、いんぎんに言う。
「・・・・・・・」
答えなかった。静は、いつまでも、ただ
詫
(
わ
)
び入る姿のままでいた。
── とまた、君側から、武蔵守義信、波多野五郎らが、 「台命、否をゆるさぬ」 との厳命を、再びして来た。
御簾
(
みす
)
の座のあたり、やや
騒
(
ざわ
)
めかしい色がうかがわれる。頼朝が
焦
(
じ
)
れたのかもしれない。御台所政子が、不きげんをあらわしたものと思われる。それが、武士たちのうえにすぐ
映
(
うつ
)
っていた。
静は、やっと、面を上げて、
「・・・・・さまでの
仰
(
おお
)
せなれば」
と、覚悟のていでいった。
「ふつつかな舞ながら、一曲、仕りましょう。── とは申せ、わらわの今は、白拍子ではありませぬ。なんの人中に立って、わが
良人
(
つま
)
の恥を、たれの
御興
(
ごきょう
)
になりと、供えましょうぞ、ただ八幡の
照覧
(
しょうらん
)
に供え奉るだけのもの。それで、およろしければ」
「おお、お断りまでもない。もとより、
舞殿
(
ぶでん
)
の
法楽
(
ほうらく
)
、君にも、八幡の
冥鑑
(
みょうかん
)
に入れ奉れとの御主旨でおざる。いざ、いざ、御装束あって、少しもおはやく」
面々は
愁眉
(
しゅうび
)
を開いた。
かくと、上聞へすぐ達しる。そこにも期待の色があふれ動いた。
そして、頼朝
直々
(
じきじき
)
に、
「──
左衛門尉
(
さえもんのじょう
)
工藤祐経
(
くどうすけつね
)
、そちは、鼓の上手、静の舞いに合わせて、鼓を打て。また、畠山重忠は、
銅拍子
(
どうびょうし
)
を
仕
(
つかまつ
)
れ」
と、命じる声が、居流れている大小名の端にまで、明らかに聞きとれた。
「はっ」
と、鼓の祐経、銅拍子の重忠、二人とも、すぐ舞台の位置につく、他の
伶人
(
れいじん
)
たちも、後列に、
座位
(
ざい
)
をととのえ、キッとなって、一瞬のしじまが生もうとする微妙な機を待ち澄ました。
── 見れば、静はすでに、舞台の中央に立っていた。
いや、限られた
檻
(
おり
)
の中の人とは見えない。
虚空
(
こくう
)
の大にまかせて立った姿に見える。
しばらくは、動きもしない手の
檜扇
(
ひおうぎ
)
。またたきもせぬ
明眸
(
めいぼう
)
であった。芸の力と、絶対な姿勢は、かの女の美に、さらに
凄愴
(
せいそう
)
な
妍
(
けん
)
を加えて、何か、
気高
(
けだか
)
くすらあった。眼に頼朝夫妻なく、諸国の大小名もなく、権力への
媚
(
こ
)
びも恐れもなかった。
ただあるのは、人の子ゆえの、ぜひもない運命の
忍受
(
にんじゅ
)
であった。そして、肌に持つ肌鏡の曇りから、ふと、むらむらと
痞
(
こ
)
みあげるかの人への思慕を ──
よしの山
峰のしら雪
踏みわけて
とかの女は、われともなく、歌い出ていた。
きれいなまろい声が、その
口唇
(
こうしん
)
を破って流れると、
鼓
(
つづみ
)
、また鼓が、
谺
(
こだま
)
して鳴る。
舞衣の袖が、ゆるやかな
虹
(
にじ
)
をえがいた。── 連れて、
銅拍子
(
どうびょうし
)
がはいり、
伶人
(
れいじん
)
の
鳳管
(
ほうかん
)
が、忍び入るように夢幻の線にからんでゆく。
入りにし人の
あとぞ・・・・・
とつぜん、声が曇った。耐えようとする
口唇
(
こうしん
)
が、
顫
(
ふる
)
えを
噛
(
か
)
んだ。
さっと、その顔は
哭
(
な
)
くかと見えた。だが、美しい鬼女の
相貌
(
そうぼう
)
を呈そうとした寸前に、かの女は、必死な微笑を眼もとにもった。そして、頼朝夫妻のいる
御簾
(
みす
)
の方へ、その濡れかけた
眼
(
まな
)
じりの光を、冷ややかに、流して、
入りにし人の
あとぞ恋しき
あとぞ恋しき
と歌い上げた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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