〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/05 (火) つるおか きょく (一)

── 神事の式次がすすみ、今し方、舞殿ぶでん では、春庭楽しゅんていらく延喜楽えんぎらく神楽かぐら が終わって、小憩となったらしい。
一瞬、人もないように山もひそまって、ただ山藤やまふじ の香や、木の芽の浅みどりが、そよと、大気にゆれているだけだった。
すると。── 頼朝の近習らしい二、三名が、そこの御簾みす の間から、廊のきはざし を降りて来た。そしてまた長い廊つづきを、たたたたと、社殿の別棟べつむね の方へ、駈け渡って来るのが見えた。
「安達どの、お控所は?」
「安達どのは、どこにおらるるか」
「おう ── 」 と、新三郎清経が、隅廊下すみろうか の一室から、
「清経、これにおりますが」
と、答え出た。
近習の比企ひき 藤四郎/rb>とうしろう 、三浦平六、里見冠者さとみのかじゃ 義成よしなり の三名が、 「── 君命です」 とまず断って、おごそかに安達へ伝えた。
「静どのを召しつれて、すぐ台下までお渡りください。お急ぎの、み気色です」
「心得ました。── が、母のおうな は」
「なんの御意もござらぬ。老母は、召しつれるには及びますまい」
「では、すぐまか り出まする・・・・静どの」
と、安達は起って、
「こう、お でなさい」
と、一方の壁代かべしろ の蔭へ、うながした。
母の禅尼の声が先にした。ともにと思っていたあてがはず れて、うろたえ気味の老母であった。静は、その母へ、何か優しく言い残している容子ようす だった。
いつでもと、心支度はしていたことである。素直に、安達や近習に従って、幾曲折の廊を、上へ上へと、渡って行った。
拝殿が見えた。すでに、頼朝夫妻のいる御簾みす の座にほど近いか。その辺りまで来ると、藤那通とうのくにみち が、待っていた。そして、後ろの杉戸をさして、
しずか 御前ごぜ は、ただちに、そこのお支度部屋に入って、舞のお身支度あるように ──」
いきなり下命なのだ。彼自身、杉戸を開けて、静をしょう じた。
静はすわるしかない。
見れば、冠台かむりだい金揉きんも みの立烏帽子たてえぼし を乗せ、べつに、水干すいかんはかま黄金こがね の細太刀、檜扇ひおうぎ までが、すでに用意されてある。
「・・・・どこまでも、この静を、御舎弟の側室と扱われず、ただの白拍子として、見ようとのおお心か」
── 心外なと、静は思う。つんと、火のように涙腺るいせん がつき刺された。手をつかえて、那通くにみち へ、
「舞えとの仰せですが、思いもよらぬ御諚ごじょう です。このところ、体もすぐれず、舞の所作しょさ なども、忘れはてておりまする。おゆるし給わりませ」
ひれ伏したが、伏す気持ではない。敵府の中だ。頼朝夫妻のいる所だ。かの女はただ、あやうく涙になろうとするおもて を隠すために、また、逆流する血を支えるために、身を折り曲げて、あの肌鏡はだかがみ を、胸の下に、押し当てていたのであった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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