歌は、頼朝の嫡子実朝
が後に詠じたものだが、その驕おご
りは、すでに、この日の鶴ヶ岡にも満々と見えた。 それにしても。 人の驕おご
りや栄花のたどり出す道とは、なんと、変哲のないものか。 武家統治の幕府をここに創た
てた革命児とも見ええる頼朝にしてからが、庶民百姓の救恤たすけ
よりも、まず盛んに、社寺の建立こんりゅう
に力をそそぎ、新府の粉飾ふんしょく
を急ぐかたわら、しきりに、供養の行事や、参詣事さんけいごと
を好んでいた。 そうした見栄者みえしゃ
であり、迷信家であることは、過去の人、平相国清盛よりは、はるかに、思想の古い頼朝と言えぬこともない。 例は、多いが。 ── 近ごろ下々しもじも
で 「なんの異兆いちょう ?」
と怪しんでいることが耳に入ると、頼朝夫妻もまた、内々気にやんでいたりした。 というのは、この四月初めからのことである。連日のように、黄色い小蝶こちょう
の群れが、まるで、無数な陽炎かげろう
か、地をはううちぎれ雲のように、鎌倉じゅうを舞い、それがなんとも奇観であった。 町の中でも、よく見られるが、わけて鶴ヶ岡八幡の辺りに多い。 「季節の変へん
か?」 「いや、土地ところ
の古老も、こんな例ため しは知らぬと言うし、特に、鶴ヶ岡に多いとは、どうしたものか」 と、人びとは、怪異に思った。 蝶といえば、すぐ、平家が連想される。──
昼日中、平家の化身けしん が、きれいな怨霊おんりょう
の霞かすみ を引いて、鶴ヶ岡から鎌倉御所の上を、ひらひら呪のろ
うのではないか。と、いったような幻想をささやく者もある。 頼朝が、それを気に病んだことは、吾妻鏡あずまかがみ
の記録にも見える。 それによると、五月一日の項こう
に ── 去ル頃ヨリ黄蝶飛行、殊ニ鶴ヶ岡ノ宮ニ遍アマネ
シ、コレ怪異ナルニ依ツテ ── と、頼朝は、藤那通とうのくにみち
に奉行を命じ、八幡宮に大神楽を上げさせている。 そして、巫女みこ
をして、八幡台菩薩はちまんだいぼさつ
の託宣たくせん を伺わせたのだった。 巫女みこ
の託宣がまた、おもしろい。 「── 反逆者ガヰルゾヨ。西ヨリ南ヘ廻リ、又、南ヨリ西ヘ帰ツタ。猶、東ヘ到ル気色モアル。日々夜々、二品ニホン
(頼朝) ノ運ヲ窺ウテヰルゾヨ。然サ
リナガラ、ヨク神ヲ崇アガ メ、善政ヲ行ハバ、ソノ者モ、両三年ノ内ニハ、必定消滅セム」 頼朝は、即日、紳馬二頭を献納して、神にこたえた、ということである。 あるいは、巫女の言などは、吾妻鏡の筆者の戯作かもしれない。 けれど、それは権威のある幕府の記録である。先に、静を取り調べた藤原俊兼や盛時などは皆、吾妻鏡の筆者であった。──
だから、四月中における鎌倉じゅうの黄蝶異変なども、彼らは眼に見たままを記録しておいたものに相違ない。 ただ、しかと言い切れないのは。 ── 四月八日、頼朝夫妻社参の当日も、果たして、そんな怪が、見えていたかどうか。 いや、国も人も旺さか
んな時には、何もかもが、興隆の瑞しるし
に見えよう。大紋烏帽子えぼし
の大小名以下、鎌倉武士の綺羅きら
にちりばめられたその日の鶴ヶ岡では、黄蝶の怪も、おそらく色を消してしまったにちがいない。 |