〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/05 (火) こう ちょう (二)

鶴ヶ岡は、山じゅう、鎌倉武士で埋まっていた。
しかし、ふもとの放生池から先は、一般の者の立ち入りは許されない。
参向さんこい の御家人始め、国々の守護職や、地頭なども、すべて、下馬川げばがわ で馬を降り、附近の “馬屯うまたむろ ” にこま をつないでおく。
「降りよ」
と、静の輿こし も、赤橋のてまえで、停められた。
藤那通とうのくにみち と、安達のあとに従って、静母子は、そこから山上の社殿へ歩いた。
海か空かとまがうあお の中に、由比ヶ浜の一の鳥居が振り向かれる。雪ノ下二十五院の堂塔や、大蔵一帯の柳営や、大路小路の町割の条目じょうもく も、あざらかに、一望の下にある。
つい十年前は、まだ、磯風にすさ ぶ並木道と、 せた田と、稲荷いなり小社こやしろ があったに過ぎない鎌倉の里や、この鶴ヶ岡であった。
それが、こんな大都府を、たちまちにげん じ出そうとは、たれが思い得たろうか。
しかも、天下の大令も、都にはなく、この地に移っている。むかしは、西八条の平家。今は、鎌倉の源氏。まことに、頼朝の盛時今にありといってよい。
宮ばしら
ふとしき建てて
よろづ代に
いまぞ栄えん 鎌倉の里

歌は、頼朝の嫡子実朝さねとも が後に詠じたものだが、そのおご りは、すでに、この日の鶴ヶ岡にも満々と見えた。
それにしても。
人のおご りや栄花のたどり出す道とは、なんと、変哲のないものか。
武家統治の幕府をここに てた革命児とも見ええる頼朝にしてからが、庶民百姓の救恤たすけ よりも、まず盛んに、社寺の建立こんりゅう に力をそそぎ、新府の粉飾ふんしょく を急ぐかたわら、しきりに、供養の行事や、参詣事さんけいごと を好んでいた。
そうした見栄者みえしゃ であり、迷信家であることは、過去の人、平相国清盛よりは、はるかに、思想の古い頼朝と言えぬこともない。
例は、多いが。
── 近ごろ下々しもじも で 「なんの異兆いちょう ?」 と怪しんでいることが耳に入ると、頼朝夫妻もまた、内々気にやんでいたりした。
というのは、この四月初めからのことである。連日のように、黄色い小蝶こちょう の群れが、まるで、無数な陽炎かげろう か、地をはううちぎれ雲のように、鎌倉じゅうを舞い、それがなんとも奇観であった。
町の中でも、よく見られるが、わけて鶴ヶ岡八幡の辺りに多い。
「季節のへん か?」
「いや、土地ところ の古老も、こんなため しは知らぬと言うし、特に、鶴ヶ岡に多いとは、どうしたものか」
と、人びとは、怪異に思った。
蝶といえば、すぐ、平家が連想される。── 昼日中、平家の化身けしん が、きれいな怨霊おんりょうかすみ を引いて、鶴ヶ岡から鎌倉御所の上を、ひらひらのろ うのではないか。と、いったような幻想をささやく者もある。
頼朝が、それを気に病んだことは、吾妻鏡あずまかがみ の記録にも見える。
それによると、五月一日のこう に ── 去ル頃ヨリ黄蝶飛行、殊ニ鶴ヶ岡ノ宮ニアマネ シ、コレ怪異ナルニ依ツテ ── と、頼朝は、藤那通とうのくにみち に奉行を命じ、八幡宮に大神楽を上げさせている。
そして、巫女みこ をして、八幡台菩薩はちまんだいぼさつ託宣たくせん を伺わせたのだった。
巫女みこ の託宣がまた、おもしろい。
「── 反逆者ガヰルゾヨ。西ヨリ南ヘ廻リ、又、南ヨリ西ヘ帰ツタ。猶、東ヘ到ル気色モアル。日々夜々、二品ニホン (頼朝) ノ運ヲ窺ウテヰルゾヨ。 リナガラ、ヨク神ヲアガ メ、善政ヲ行ハバ、ソノ者モ、両三年ノ内ニハ、必定消滅セム」
頼朝は、即日、紳馬二頭を献納して、神にこたえた、ということである。
あるいは、巫女の言などは、吾妻鏡の筆者の戯作かもしれない。
けれど、それは権威のある幕府の記録である。先に、静を取り調べた藤原俊兼や盛時などは皆、吾妻鏡の筆者であった。── だから、四月中における鎌倉じゅうの黄蝶異変なども、彼らは眼に見たままを記録しておいたものに相違ない。
ただ、しかと言い切れないのは。
── 四月八日、頼朝夫妻社参の当日も、果たして、そんな怪が、見えていたかどうか。
いや、国も人もさか んな時には、何もかもが、興隆のしるし に見えよう。大紋烏帽子えぼし の大小名以下、鎌倉武士の綺羅きら にちりばめられたその日の鶴ヶ岡では、黄蝶の怪も、おそらく色を消してしまったにちがいない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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