〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
静
(
しずか
)
の 巻
2014/08/04 (月)
黄
(
こう
)
蝶
(
ちょう
)
奇
(
き
)
事
(
じ
)
(一)
ここにいても、朝々、鏡に向かわない日はない。
だが、今のかの女に、化粧がなんの張り合いであろう。われながら驚かれる惨心のやつれと、もう
六月
(
むつき
)
となる
身重
(
みおも
)
の
翳
(
かげ
)
が、白粉の下にも隠し得ない青味を淡く沈めているのが、人こそ知らね、自分には、日ましに濃くわかるだけのものだった。
── が、鏡の中の静は、鏡の外の静へ、その気乗りもせぬ化粧を励ましながら、
「もう、自分だけの身ではない。月満ちて、産む日までは」
と、いいきかせる。
「── あも麻鳥も、いうてくれた。憂いに敗けまい、心をひろく、さわやかに、いつもいよう。吉野でいただいたお形見の
肌鏡
(
はだかがみ
)
、これを見るたび、心もふいて」
わけて今朝のかの女は、化粧にも、
一期
(
いちご
)
の思いを潜めていた。
“
辰
(
たつ
)
ノ
下刻
(
げこく
)
(午前九時)
までに、鶴ヶ岡八幡の神殿の廊まで、
罷
(
まか
)
り出よ”
との上命である。
おととい、寝耳に水の通達を受けたときから、静は拒みつづけていた。体のすぐれぬことを理由に、かぶりを振った。が、
宿所主
(
しゅくしょぬし
)
の安達新三郎は、朝夕の監視者である。
「── 台命にそむき奉るわけにはゆかぬ。
微恙
(
びよう
)
のよしは、君側より聞こえ上げておけば、気づかない」 と、受けつけもしてくれない。
母の禅尼は禅尼でまた、安達とともに、口を酸くして、説くのであった。娘のわがままか、でなければ、晴れの場所を
畏怖
(
いふ
)
しての拒みだろうと、その程度にしか、静の胸を解し切れない老母でもある。
でも、その年寄りに、かき口説かれると、かの女もついには、うなずくほかはなかった。── が浅ましさよ、と
褥
(
しとね
)
の中で泣いたゆうべの
瞼
(
まぶた
)
は、まだほの紅い
痕
(
あと
)
となって、白粉でも消しきれなかった。
「静よ、静よ」
時刻は近いらしい。別の小部屋から母が言う。
「御門の方で、
人騒
(
ひとさい
)
がする。これへ、お迎えの衆が見えたら、すぐ
起
(
た
)
たねばなりませぬぞ」
「ええ。・・・・いつでも」
とは答えたが、静は、はっと、それから身の装いを、急にしていた。
六月
(
むつき
)
の腹帯に深く秘めて、吉野の奥で、義経から 「── 形見ぞ」 ともらった鏡を、肌に持った。
五衣
(
いつつぎぬ
)
、
袴
(
はかま
)
、
釵
(
かざし
)
。すべて美し過ぎるほどな物を、前日給与されていた。袖や髪の根の
焚
(
た
)
き
香
(
こう
)
はいうまでもない。
臙肪
(
べに
)
、白粉の
刷
(
は
)
きも、こころもち、常より濃く粧った。── やつれを見せまいためである。
「── 静どの。お立ち出でなさい」
ほどなく、廊の外で、小侍どもの催促がする。母子は人びとに囲まれて、玄関の式台へ出、
前栽
(
せんざい
)
へ降り立った。
問注所通
(
もんちゅうじょがよ
)
いの
箱輿
(
はこごし
)
とちがい、今日のは、華麗だった。── 迎えには
藤判官代
(
とうのはんがんだい
)
那通
(
くにみち
)
。また、新三郎清経らも、付き添うて行くらしい。
磯ノ禅尼は、列のいかめしさや、公式の
輿
(
こし
)
を見て、乗るにも乗り惑い、
「これはこれは、もったいないお迎え、どなた様にも、まことに、ご苦労様なことで・・・・」
などと、いらざる辞儀や愛想を、うろうろ、
撒
(
ま
)
きこぼした。
耳もかす面々ではない。 「── 早く乗れ」 と、しからぬばかりおなのだ。老母につづて、静へも、
「それへ」
と、もう一つの輿を眼でさした。
── 静は、彼らに眼もくれず、歩をすすめた。
自分の身は、自分の意志で、という歩み方であった。
── 今見せられた母の物腰は、情けなかった。花街のほかの世間は知らない年寄りなので、
卑下
(
ひげ
)
の習性が出るのも仕方はないが、自分は違う。自分は、判官義経どのの
室
(
しつ
)
ぞと思う。
だまって、
輿
(
こし
)
の
簾
(
す
)
に入る。
列は、
扇谷
(
おうぎがやつ
)
から若宮大路を北へ行く。
空は、
真澄
(
ます
)
みの青さだった。おりふし、賑やかな人通りである。鎌倉八郷、
谷々
(
やつやつ
)
の寺院からは、のどかな鐘の音が、湯のように
沸
(
たぎ
)
り鳴っていた。
日さえ、心の外だった静は、
「── まこと、今日は四月八日。
釈尊降誕
(
しゃくそんこうたん
)
の日」
と、気がついた。
幼いころの、
花御堂
(
はなみどう
)
の祭りや、京の寺々の賑わいやらが、思い出される。また、
天上天下
唯我独尊
(
ゆいがどくそん
)
の
象
(
かたち
)
を示したものという、小さい
裸形
(
らぎょう
)
の誕生仏が善男善女の捧げる花々に囲まれて、拝まれていた光景なども、ふと、瞼にえがかれた。
意識でもなく、輿の中のかの女は、いつか、その
両掌
(
りょうて
)
を、胸の前に合わせていた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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