〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/04 (月) なぶ  る (四)

さっきから、景家が、静を離さず、何か、ねちねちと、耳もとへ口を寄せたり、その手首に触れようとしたししていたのは、たれもが、見ぬ振りしながらも見ていたのである。
察するに、おうな の舞へ、人びとが気を取られているうち、静の肌へ、景家がまた、みだ らなわるさを、厚顔あつかま しくいど んでいたに違いない。
「・・・・・」
やっと、すわり直した景家かげいえ にも、静の面にも、いきさつは、すぐ読まれた。はた からは、救いも出来ない蒼白そうはくけわ しさが、両者の に、からみ合ったままでいる。
「あハハハ。わははは」
照れ隠しか。── 景家は、起こした体を、横に揺すって、笑い出した。
「これや驚いた、何をいか ったのか、しずか御前ごぜ は。・・・・ただ、ほんのただ、そのかいな に、拙者の手が触れ合うただけのもの。乳でも、まさぐったなら、怒るもいいが、だが、それくらいなたわむ れ、白拍子なら、何ほどなことでもあるまいに」
静は、とつぜん、はらはらと、涙をこぼした。心外なと、思ったのであろう。梶原こそは、わが良人つま 義経を、鎌倉どのへ讒言ざんげん した憎いかたき 。その息子かと見るさえ、つら かったに違いない。その耐え難い血が駆け回っていた体へ ── 景家の心ないわざが、女の多感を、いちどに、溢出いっしゅつ させたものらしかった。
きっと、色を、澄まして ──
「まこと、鎌倉の若殿輩わかとのばら が面目を、今宵は、よう見させていただきました。親に似ぬ子は鬼子とか。さすが、平三へいざ 景時かげとき さまが御子息、お口まえがお上手です。身のほどもおわきまえなく、ようぬけぬけと・・・・」
「な、なに。身のほど知らずだと」
「そうです、たとえわらわはいやしい白拍子の出であれ、またわが良人つま は、追捕ついぶ に追わるるお人であれ、静は、源九郎義経ぎみの側室です。── さればこそ、鎌倉どのも、物問わんと、お召しなされたのではありませぬか。とるに足らぬ一白拍子なれば、なんで物々しゅう召されましょうか。六波羅問いに、お委せあれば、すむことでしょうに」
「・・・・・・・」
「あなた様が、よしや、どれほど重い御家臣の子息であろうと、わらわも、鎌倉どのの連枝れんし 、義経ぎみの側室です。 酒興の余りにしろ、みだ らなたわむ れなど、ゆるしてはおかれませぬ。二度と、今のような真似まね をなされば、静にも、覚悟があります ── 身のほどもおわきまえなくといっても、過言ではありますまい。身のほどのみか、少しは、殿輩とのばら の恥でもお知りなされませ」
ついかの女が言ってしまったものは、日ごろから胸にあったかたまり であったといえよう。
美しい耳朶じだ を、よけいあか くして、すこし息をきって、口をつむぐと、
「・・・・おかあさん」
と、禅尼の方へ、悲しげな顔を、振り向けた。
そして。この が、こんな口を殿輩の前でもいう だったのか ── と、あきれ顔して、恐れおののいている母へ、
「もう、御酒興も尽きたかに見えまする。夜も けました。おいとまをいただいて、退 がりましょう」
と、うながすなり、つと起って、先に、廊の外へ、出てしまった。
それを、たれも、止め得なかった。
すきもなく、咄嗟とっさ に、適当な言葉も、見つからなかった。ただ、遠来の田舎客一人だけが 「ううむ」 と、あの女の去る後ろ姿へ、微笑とうなずきを送っていた。
*    *    *
それから間もない、四月八日。
鎌倉じゅうの社寺は、例年、花と人出と、鐘の音で、にぎ わう日だった。
灌仏会かんぶつえ の花まつりである。
鶴ヶ岡八幡にも、式事が行われるらしい。当日の奉行からも、また、奥祐筆おくゆうひつ藤那通とうのくにみち からも、正式な通達が、前日、安達新三郎清経の手へ届いていた。
── 当日、時刻までに、静母子をともない、鶴ヶ岡拝殿の隅廊下すみろうか まで、まかり参れ。
と、いう状であった。
形式といい、状の辞句といい、いうまでもなく、頼朝夫妻の召出めしだ しである。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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