〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
静
(
しずか
)
の 巻
2014/08/04 (月)
嬲
(
なぶ
)
る (三)
── めっそうもない。という返辞である。
慎みの身、また、われから人なかへ、姿を持ち運ぶ心にもなれない。
平におゆるしを、とのみ固持して、帳の蔭から顔も見せない静御前です ── と、家来は何度も何度も、
母屋
(
おもや
)
との間を往復して、通いくたびれた顔つきで言う。
「安達、行け。あるじが、説かねば」
あきらめる客ではない。ついに、新三郎清経自身が行って、懇切に頼んだ。
けれど、静はなお、
起
(
た
)
つ様子もなかった。こよいは気分がすぐれぬと言い、客の前で舞うなどは、思いのほかのこと。 「・・・・ゆるし給え」 と、姿をそむけたまま、あとは返辞もしてくいれない。
安達は、困りぬいて、母の禅尼を外へ呼び出し、客は梶原の子息やら、奥祐筆の
那通
(
くにみち
)
である。彼らの機嫌を取っておけば、自然、頼朝夫妻への
取
(
と
)
りなしもよかろうが、反対に、意を
損
(
そこ
)
ねたら、まずい結果になる。なんとか静を上手に説いて ── と、言い含めた。
生みの母だし、禅尼はもともと、色町の女、世馴れてもおり、のみこみも早い。
── どう静をなだめたか、あるいは、静自身、母のすすめに、ぜひなく、夜化粧を直したか、ともあれ、安達が席へ戻っていると、しばらくしてから、かの女は、母の磯ノ禅尼に伴われて、広書院のかがやく
燭
(
しょく
)
の片隅に、そっと姿をあらわした。
景家
(
かげいえ
)
以下、客たちは、眼をそばめ合った。
「おう、お見えくだされたか。
静
(
しずか
)
ノ
御前
(
ごぜ
)
」
「さ、さ。これへおすすみあれい」
「ここ、
鬱々
(
うつうつ
)
と、お
籠
(
こも
)
りとか。お胸のほどは、察しられる。だが、まれには、世間ばなしも聞かれ、われら陽気な客と、気をお晴らしあるも、無益ではおざるまいが」
なんのかのと、かの女を、酒間に引き入れて、
「── 何。酒はお口にもなさらぬのか。堀川に召されるまでは、都一の白拍子でおわした身とか、伺うていたに」
「では、杯は
強
(
し
)
いますまい。その代わりに、おそれ入るが、この杯へ、酌して欲しい」
ひとりが
嬲
(
なぶ
)
ると、ただいるのは損のように、次のひとりが、また嬲る。
── これが、鎌倉御家人の近ごろの風儀か。
はやくも、思い上がった勝者の府の若者たち、特に、
重臣輩
(
じゅうしんばら
)
の息子たちの、あくどい酒興振りを実際に見て、ひそかに、酔えもせぬ心地でいたのは、富樫左衛門尉だけだった。
だが、景家たちは、もうそんな地方の客の存在などは忘れきって、
泥酔
(
でいすい
)
していた。そのうえ、どうしても、静が舞わぬので、母の磯ノ禅尼へ、 「では、娘に代わって、禅尼が舞え。舞って見せろ」 と、
執拗
(
しつよう
)
に求めて、やむ気色もない。
「このような風情もない
媼
(
おうな
)
の舞でおよろしければ」
と、禅尼は気軽に、起って舞った。
みずからは
催馬楽
(
さいばら
)
を唄い、道化た踊りを、あかぬけた手振り足振りで、舞い始める。
「いや、さすがよ」
──
那通
(
くにみち
)
が言った。
さすが、静の母、洗練されたものだと、しんから感服したようにうなったのである。
人びとも、その間だけは、鳴りをひそめて、見とれていた。
すると、とつぜん、一つの
膳
(
ぜん
)
の器物が、音を立てて躍った。
「── あっ」 と声を発したのは、その前にいた
景家
(
かげいえ
)
だった。彼の体は、
滑稽
(
こっけい
)
な図を描いて、あやうく後ろへ、ひっくり
転
(
かえ
)
ろうとしていたのだ。
「・・・・・・?」
振り向いた眼は、みな、笑えもせず、物も言えず、ただ白け渡らずにいられなかった。
景家を突き飛ばしたのは、静である。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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