〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/03 (日) なぶ  る (一)

その日、いや、その日だけではない。
鎌倉四郷の内に住む、重臣たちの私邸には、このところ、よく遠来の客があった。
地方から、参府中の豪族が、
「このたび、在国の地において、地頭の職を拝しましたれば」
とか、
「守護の任を、仰せつかり、御礼のため、上府いたしました者。以後、よろしく御示教を」
とか、国々の土産物など音物いんもつ として、幕府要職の門へ、みな挨拶に回っていたからである。
例外なく、梶原景時の邸へも、地方の音物いんもつ が集まっていた。そしてこの日は、信濃北陸の新任の外様とざま たち数名を、梶原家の方で宴に招いたものだった。── で夕刻、安達新三郎の門を、不意にどやどや訪れたのは、つまり昼からの、その招宴のくずれであった。
「やあ、これは、おそろいで」
まったく、不意の騒客だったが、安達家では、下へもおかない。
なにしろ音頭取おんどと りは、飛ぶ鳥落す梶原の息子である。ことに、初めての一客を伴っているので、さっそく、大慌おおあわ てのうちに、広書院に酒席をしつらえ、
「御所望に会うて、面目の至り。何もござらねど、まず一盞いっさん を」
と、家族を挙げて、もてなした。
「いや、いただく前に、安達殿へ、ひきあわせたいお人がある。── これなるじん は、拙者が母方の縁者でおざるが」
梶原景家かじわらかげいえは、かたわらに連れていた四十がらみの人物を、酒となる前に、主へ紹介した。
景家は、妾腹しょうふく の子で、生母は北国の美人だと聞いている。その母方の縁者とは、たれなのか。
安達が見るところ、その人は、沈着な物腰というだけでなく、いわゆる、威あってたけ からぬ容貌ようぼう をそなえていた。だが、どこやら地方人らしい田舎びたところもある。端正な素朴さといえばいえる行儀のよさが、この仲間でも、際立きわだ っていた。
「申しおくれましたが」
と、その者は、すぐ、梶原の語に次いで。
「それがしは、加賀国野々市の住人、富樫とがしすけ 康家やすいえ と申す者 ──」
彼の挨拶が終わるのを待ちきれぬように、主の安達新三郎は、
「では、寿永二年の秋、木曾勢の都入りとともに入洛して、後、まもなく木曾を見限って、郷里石川郡野々市へ帰国したと聞く ── あの富樫殿とは、御辺ごへん であったか」
と、見まもった。
「そうです。よう御存知で」
富樫ノ介も、まじまじと、安達を見る。
安達新三郎は、小ひざを打って、
「道理で、どこかでお見かけした覚えのあるはず。じつは木曾がまだ破竹はちく の勢いのころ、拙者は、鎌倉どのから諜者ちょうじゃ の役を仰せつかって、名を偽り、木曾軍の中にまぎ れておりました」
と聞いて、景家も、そばから、
「では当時、御両所は、同陣の友だったわけか。これは奇遇だ。いや、おもしろい宵となったぞ」
と、興がり出した。
酒も話しも、はずんで来る。
が、富樫ノ介は、余り飲まない。
もっとも、この仲間では、いかに国許では勢威のある土豪の彼でも、一介いっかい外様とざま という身分に過ぎない。
それに、こんどの参府は、加賀の守護職に任ぜられ、左衛門尉さえもんのじょうに推された ── 御礼のためだった。
だから彼はもう旧来の国庁のすけ ではない。富樫左衛門尉である。
新たに、加賀の守護職に げられたのも、彼がその地の名族であり、また、木曾軍を嫌って、以後、国許で泣かず飛ばずにいた慎み振りも認められてのことではあるが、鎌倉どのへの推挙の蔭には、もっぱら、梶原景時の扱いがあったものといわれている。
── 景家かげいえ は、そうした親の羽振りをひけらかすように、酒間の雑談にも、しきりに、そんな事情を、問わず語りにしゃべっていた。
すると、千葉平次常秀が、わざと、おもしろからぬ顔をしてみせ、
「やい、景家かげいえ
と、居ずまいを直して、責めた。
「── 今宵、安達の門を驚かして、皆して、所望せんと、言い合わせて来た目的めあて は、そんな話ではなかったはずだぞ。あれを忘れては困るではないか。なんのための、押しかけ酒盛さかもり り」
「それよ、それこそ、待ちかねられる」
と、藤那通とうのくにみち八田はったの 太郎朝重も、
「主唱者は景家かげいえ 。当然、景家からこの のあるじに、改まって、所望の件を、申し出てもらいたいもの」
と、同調して、いいはやした。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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