一瞬、義経の姿は、迷いの中にあった。 このまま奈良へ赴
くべきか。 いやいや見捨ててはならじ、静の身を奪と
り返しに、道を急いで、東海度へ出ようかと。 朗従たちは、義経の迷いも、また、生身を裂かれるほどであろうその苦しさも、分かりすぎるほど分かっている。 しばらく、暗然たるまま、声もなかった。 すると、弁慶がすすみ出て、 「またしても、鎌倉どのの無慈悲な責め手、思うに、罪もない女子ながら、静しずか
御前ごぜ を責めれば、その口より、殿の居所も知れ、自然、判官どのも、名乗り出もせん、という酷むご
い謀はかり とみえまする。されば、ここのところは」 と、声をつまらせながら、こう所存を述べた。 「このさい、いかと、殿御自身お動きあらば、鎌倉、六波羅などの思うつぼでございましょうず。──
静しずか 御前ごぜ
のお身は、この弁慶が、海道の途中をつけ狙うて、奪い返し、きっと世間の辱を、打ち消しますれば、殿には、奈良へ入らせませ。── 一刻も早く、かの勧修房を、お頼りあって」 いちどは、静にひかれて、やむにやまれない傾斜に立ち惑うらしい義経だったが、じっと、眉に自制を見せ、 「・・・・道理よ。わしは、眼を閉じて、奈良へ籠こも
ろう。だが、静を曝さら し者にされるのは、忍び難いぞ、なんとしても忍び難い」 と、いくたびもつぶやいた。 だが、寸時でも、武蔵坊がお主の側を離れるのは不利だし不安心だと、みな言った。寺門の風習とか、内部事情に通つう
じているのは、朗従中、随一の彼である。彼のほか、かけ替えもない。 「静御前の方へは、それがしが行こう。武蔵坊は、殿のお供をして、奈良へ行ってくれい」 伊豆有綱、鎌田正近の二名が、切せつ
に言う。それに、文妙もんみょう
、文実もんじつ など、藤室ふじむろ
の八僧も、加わらんと、望んで出た。 「── あわせて十名、これだけあれば、追立おった
て役人や六波羅武者の同勢など、蹴散けち
らすに、なんの造作があろう」 と、意気込んで見せた。 さらばと、義経は、残る武蔵坊たち六名の朗従を連れ、伊賀から、月ケ瀬渓谷けいこく
へ降り、大和の般若野はんにゃの
を過よ ぎって、人目多い奈良へ、わざと、まぎれ入った。 また、それと別れて、一方、伊賀山中から東方の海道へさし急いだ十名の静奪取組は、その後、どういう首尾を得たか。 ここで、ぷつんと、彼らの消息が切れてしまったのは、ふしぎである。 護送の列を、追いかけたが、ついに道中では、間に合わずにしまったものか。 いやいや、そんなはずはない。 静母子の身は、箱輿はこごし
に舁か かれて行ったし、追立おった
ての人馬は、道中の脚どりや、宿々しゅくじゅく
の泊りでも、概して、何かと手間どるものである。 その同勢が、長々と近江路から不破ふわ
ノ関せき を練って行く間には、一方身軽な追跡組みは、間道から美濃路へ出ても、あるいは、鈴鹿すずか
を東へ降りて、熱田あつた の辺りで、待つとしても、ゆうに、日は余っていたであろう。 にもかかわらず、静が、彼らの手に渡ったという聞こえはなかった。 静の身は、その後、鎌倉の府へ、事なく送り届けられている。 ただ、道中では、妙な一事件が、あるにはあった
── 三河、遠江の間の曠野こうや
で、追立おった ての役人が襲撃された。そして、二つの輿こし
を捨てて逃げ散った。 ところが、襲撃者の奪った輿こし
は、にせ者もの の輿であった。静母子とは、似ても似つかない媼おうな
と小娘が、布垂ぬた れの内に乗っていた。 すると、驚きと失望に、茫然ぼうぜん
たるその者たちへ向かって、たちまち、無数の矢が、射られて来た。それは、暮れかかる野末へかけて、小さい旋風つむじ
が、幾つとなく、駆け回るかのような小合戦を描き、やがて夜にはいるまま、喚おめ
きもいつかかき消えてしまった・・・・。 この一件は、当時、まったく途上の風評にもならず、記録にも上がらなかった。それゆえ、静の東下りは、何の支障も陰影もなく行われたかのように見過ごされたが、思うに、それは伊豆有綱や鎌田正近の計画が、見事、敵にウラをかかれていたということのほかではあるまい。 まことしやかに、にせ輿こし
を差し立て、一方べつに、真の静母子は、さりげない行装の下に、鎌倉へ送られていたのではあるまいか。 ともあれ、静と磯ノ禅尼は、三月上旬、鎌倉の府内に着いていた。そして、 「沙汰さた
に及ぶ日まで、ひとまず、休息させておけ」 という上意の下に、即日、御家人安達新三郎あだちしんざぶろう
清経きよつね の宅へ “預け”
となった。 |