多武の峰を去って、十津川
の深くへ隠れたきり、行方を絶っていた義経主従は、一時、伊勢へ入り、北伊勢へ転じ、そこにうわさが立ったころは、また伊賀の奥地へ移っているなど、どこにも、長くはとどまっていなかったようである。 藤室ふじむろ
の八弟子たちは、なお義経についていたが、一つにいては、人目に立つので、 「われらは、われら同志の連絡つなぎ
を取り合い、常にはわざと別れ歩いておることのします。そして、何か異変を知れば、直ぐ駆け戻って、お耳に入れますゆえ、お気づかいなく」 と、彼らは彼ら特有な旅法師と化けて、日々、遠くの人里まで、歩きまわり、うわさや気配を探って来た。で、義経のいる所は、八個の衛星が、常に、環わ
をなしているようなものだった。 だから、追捕ついぶ
の兵が、いかに躍起やっき となっても、捕まるはずはない。いつも鮮やかに、裏をかかれるばかりだった。何か聞き込みを得た彼らが、勢い込んで殺到さっとう
するころには、すでに想像もつかない地へ居所を変えている義経だった。 「ええ、またしても」 「どうして、こうすぐ、感づかれるのか」 あとのまつりの地だんを踏むたびに、追捕の将士は、口惜しがった。世人もみな、神出鬼没と、それをはやした。 けれど、彼の地価行動も、月日を経ふ
るに従って、ふしぎな、地下の脈絡がついていた。 義経への、見えない同情が、自然、かたちを持って、陰に陽に、彼を庇護ひご
し出していたのである。 奈良興福寺の、勧修房かんじゅぼう
聖光しょうこう は、ひそかに、人をよこして、 「もしお心が向き給わば、いつにてもお立ち越えあれ、きっと、お匿かくま
まい申しあげん」 と、伝えて来たし、また、叡山えいざん
や鞍馬くらま からも、同様な便りが、人づてに聞こえていた。 義経としては、
「もう一度、親しく、後白河の法皇きみ
にお目通りをとげたい」 と、いう望みがあった。 人を信じるのに篤あつ
い彼は、自分を信じてくれた人も忘れかねる。── 流離りゅうり
の間、なんとか打開の途はないものかと案じるとき、義経の脳裡のうり
には、いつも、後白河の御信寵ごしんちょう
が思い出された。 「・・・・ほかには、兄頼朝をなだめて、身の勘当を、解いて給わるようなお人はない」 これは彼の、まだ世に若い、浅慮な空恃そらだの
みにちがいなかった。 けれど、彼の純情は、後白河の信寵が、多分に、政略を含んでいたものとは、その当時から受け取れていなかった。自分を知ってくださる知己ちき
だと感激していたのである。今でも、その未成年者的な若い考えから抜け得ない義経だった。 この考え方の未熟さは、兄頼朝へ対しても、ちがっていない。 すべての、兄の処置は、兄の本質ならぬ誤解のためと、解している。──
因は、周囲の讒言ざんげん にあるのであって、兄その人は、今も昔も変わらない、黄瀬川の陣で、兄弟初めて、手を取り合って泣いた
── あの人だと、信じて疑わないのである。 だから、彼は、 「ほかならぬ院の法皇きみ
のお扱いなれば、周囲の讒者ざんしゃ
も、声をひそめ、兄も怒りを解いてくれよう」 と、はかない望みへ、真剣にすがるのだった。 それには、ちょっと危険はあるが、奈良へ出て、勧修房聖光の許に潜み、徐々に、院への接近を計るのが、最善の途であろう。──
よ思い立って、伊賀を去ろうとした日であった。 たまたま、多武ノ峰以来の八僧のひとり、藤室ふじむろ
の拾禅しゅうぜん が、 「今日、人里のうわさでは、静しずか
御前ごぜ が、鎌倉表へ、送られて行ったそうでござりますぞ。──
近江路の宿々しゅくじゅく は、それを見ばやと、えらい人立ちであったとか」 と、息を切って告げて来た。 たれもが、見るともなく、義経の眉を見た。おおいようもない傷いた
みを見せて、その顔はさっと色をひいていた。そしてふと、涙しかけたようであった。 |