〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/02 (土) しずかあずま おく り (一)

多武の峰を去って、十津川とつがわ の深くへ隠れたきり、行方を絶っていた義経主従は、一時、伊勢へ入り、北伊勢へ転じ、そこにうわさが立ったころは、また伊賀の奥地へ移っているなど、どこにも、長くはとどまっていなかったようである。
藤室ふじむろ の八弟子たちは、なお義経についていたが、一つにいては、人目に立つので、
「われらは、われら同志の連絡つなぎ を取り合い、常にはわざと別れ歩いておることのします。そして、何か異変を知れば、直ぐ駆け戻って、お耳に入れますゆえ、お気づかいなく」
と、彼らは彼ら特有な旅法師と化けて、日々、遠くの人里まで、歩きまわり、うわさや気配を探って来た。で、義経のいる所は、八個の衛星が、常に、 をなしているようなものだった。
だから、追捕ついぶ の兵が、いかに躍起やっき となっても、捕まるはずはない。いつも鮮やかに、裏をかかれるばかりだった。何か聞き込みを得た彼らが、勢い込んで殺到さっとう するころには、すでに想像もつかない地へ居所を変えている義経だった。
「ええ、またしても」
「どうして、こうすぐ、感づかれるのか」
あとのまつりの地だんを踏むたびに、追捕の将士は、口惜しがった。世人もみな、神出鬼没と、それをはやした。
けれど、彼の地価行動も、月日を るに従って、ふしぎな、地下の脈絡がついていた。
義経への、見えない同情が、自然、かたちを持って、陰に陽に、彼を庇護ひご し出していたのである。
奈良興福寺の、勧修房かんじゅぼう 聖光しょうこう は、ひそかに、人をよこして、
「もしお心が向き給わば、いつにてもお立ち越えあれ、きっと、おかくま まい申しあげん」
と、伝えて来たし、また、叡山えいざん鞍馬くらま からも、同様な便りが、人づてに聞こえていた。
義経としては、 「もう一度、親しく、後白河の法皇きみ にお目通りをとげたい」 と、いう望みがあった。
人を信じるのにあつ い彼は、自分を信じてくれた人も忘れかねる。── 流離りゅうり の間、なんとか打開の途はないものかと案じるとき、義経の脳裡のうり には、いつも、後白河の御信寵ごしんちょう が思い出された。
「・・・・ほかには、兄頼朝をなだめて、身の勘当を、解いて給わるようなお人はない」
これは彼の、まだ世に若い、浅慮な空恃そらだの みにちがいなかった。
けれど、彼の純情は、後白河の信寵が、多分に、政略を含んでいたものとは、その当時から受け取れていなかった。自分を知ってくださる知己ちき だと感激していたのである。今でも、その未成年者的な若い考えから抜け得ない義経だった。
この考え方の未熟さは、兄頼朝へ対しても、ちがっていない。
すべての、兄の処置は、兄の本質ならぬ誤解のためと、解している。── 因は、周囲の讒言ざんげん にあるのであって、兄その人は、今も昔も変わらない、黄瀬川の陣で、兄弟初めて、手を取り合って泣いた ── あの人だと、信じて疑わないのである。
だから、彼は、
「ほかならぬ院の法皇きみ のお扱いなれば、周囲の讒者ざんしゃ も、声をひそめ、兄も怒りを解いてくれよう」
と、はかない望みへ、真剣にすがるのだった。
それには、ちょっと危険はあるが、奈良へ出て、勧修房聖光の許に潜み、徐々に、院への接近を計るのが、最善の途であろう。── よ思い立って、伊賀を去ろうとした日であった。
たまたま、多武ノ峰以来の八僧のひとり、藤室ふじむろ拾禅しゅうぜん が、
「今日、人里のうわさでは、しずか 御前ごぜ が、鎌倉表へ、送られて行ったそうでござりますぞ。── 近江路の宿々しゅくじゅく は、それを見ばやと、えらい人立ちであったとか」
と、息を切って告げて来た。
たれもが、見るともなく、義経の眉を見た。おおいようもないいた みを見せて、その顔はさっと色をひいていた。そしてふと、涙しかけたようであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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