〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/08/01 (金) はつ たの み (三)

だが彼は、その日、なに思い立ったか、読みかけの書や机の物などを、ひとりぼつぼつ片づけ始め、やがて妻のよもぎ へ、あらたまって、言い出した。
「旅を歩いて、旅医師というものをしてみたい。自分の良い経験にもなるだろうし、思わぬ人助けも出来て、多少は世の しになるだろう。淋しかろうが、まどか と二人で、また当分の間、留守をたのむ」
良人おっと は変人ときめているよもぎ である。その唐突とうとつ にも、驚いたふうはない。だが、そっぽを向いて、
うそ ばっかり・・・・」
と、ことばの下に、やり返した。
「ほんとのことは、またあなたの、物好きが始まったんでしょう。静さまのお頼み事を引き受けて」
「それも、あるが」
あるがどころじゃなくて、そのほう が、目的あて なんでしょ。一体、心当てがあるんですか」
「当てはない。・・・・だが、しずか 御前ごぜ のお頼みがなくても、わしはどうしてももう一度、義経の君へお目にかからねばならぬことがある」
「ま、恐ろしい真剣な顔つきをして」
「そうだろう。わしは思い込んだのだ。そのことへなら、一命をささ げても惜しくないと」
「ときどき、へんなことへ思い込むあなたの性分は、ちっとも、珍しいとは思いませんよ。── 讃岐国へ流された崇徳すとく 上皇さまの配所へまで、わざわざ命がけで渡って行って、何をして来たかといえば、むかし、おまえの笛を一度聞きたいと仰っしゃったことがあるから、そのお約束を果たしに行った ── という風変わりなあなたですからね」
「ああ、あのころは、世の乱れも、まだ始めだった。しかしこんどは、そんな生やさしい願いとは、事が違う」
「では、どんな願いが、あってですか」
「わしばかりの願いではない、全土の祈りだ。もうもう、再びの戦乱は、どうか避けたい。いや、当面とうめん のお人へ、してくださるなと、必死場お願いをしてみる気なのだ」
「義経さまへ?」
「そうだ。もしあの君が・・・・ここで、あらゆる辱、無念、困窮を忍ばせ給うて、意地、栄達も打ち捨ててくださるならば、再びの大乱とならずにすむ」
「そうでしょうか」
「むむ。── 鎌倉の府が、一応、どれほどの力を握っても、まだまだ、不平な武族は、たくさんいよう。また、どこのたれよりも、大不平を抱いていらっしゃるのは、後白河の法皇きみ と、先に退しりぞ けられた多くの公卿大官たちに違いない。── なんとかして、義経の君に、以前のような兵馬を持たせ、鎌倉を倒して・・・・と、内々いろいろな御画策もあろうかと、案じられる」
「だって、もう四たびも、院宣が出て、国々の者へ、義経さまを、早く追捕ついぶ せよと、詔命みことのり していらっしゃるではありませんか」
「それは表向き」
「裏もあることなんでしょうか」
「院宣はたびたび発せられたが、お心の底から、武家の幕府を、よろこんでおられるはずは万々ない。ひそかには、義経の君をお支持ささえ あって、鎌倉と戦わせんと、策しておられるものとわしは思う」
「わかるもんですか。そのような雲の上のことなどが」
「いや、正邪は、べつとして、戦乱が怒るか起こらぬかのかぎ は、一にかか って、義経の君のお立場にある。わしがいうのは、それを指すのだ。かのきみ さえ、しの御一生を、世のために、みずからほうむ り去るほどな大慈悲心と、おこら えの下に、院や武士の使嗾しそう に乗ることなければ、きっと、戦は見ずにすむ」
なるほど、麻鳥のことばには、そう思い込んだ一念みたいな確信がみえる。
善と信じて、思い立つと、身を捧げても悔いない良人である。よもぎ は、もう、逆らう愚をやめて、
「あなたのこと、家を出ればまた、便り一つくれないんでしょうが、広沢のこの小屋に細々ほそぼそ 生きている女房子のあることだけは、まさか、忘れやしないでしょうね」
「それやあ、きっと帰って来るさ。かのきみ に、お目にかかりさえすれば、わしの用はすむのだから」
「まごまごして、六波羅に捕まったり、女房子へまで、泣きを見せないでくださいよ」
「なんの、あしは少しも、鎌倉どのの不為ふためはか るわけじゃない。平和の願望と、しずか 御前ごぜ のお頼みを、果たしてあげたいと念じて、義経の君をお探し申すだけのもの。どこへ出ようと、いい開きは立派につく。・・・・ま、案じないで、当分、寡婦やもめ になったと思うて、まどか を相手に暮していておくれ」
「ま。・・・・なんて虫のいい」
蓬は、ちょっと、恨めしげな眼をうるませた。 「── つらい」 と麻鳥も心では妻へ びる。だが、自分でも置き替え難い決意にそれはなっていた。やがて、鼓と薬嚢やくのう を、ひと包みにして背中に負い、広沢の小屋をあとに、彼は旅へ出て行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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