だが彼は、その日、なに思い立ったか、読みかけの書や机の物などを、ひとりぼつぼつ片づけ始め、やがて妻の蓬
へ、あらたまって、言い出した。 「旅を歩いて、旅医師というものをしてみたい。自分の良い経験にもなるだろうし、思わぬ人助けも出来て、多少は世の足た
しになるだろう。淋しかろうが、円まどか
と二人で、また当分の間、留守をたのむ」 良人おっと
は変人ときめている蓬よもぎ である。その唐突とうとつ
にも、驚いたふうはない。だが、そっぽを向いて、 「嘘うそ
ばっかり・・・・」 と、ことばの下に、やり返した。 「ほんとのことは、またあなたの、物好きが始まったんでしょう。静さまのお頼み事を引き受けて」 「それも、あるが」 あるがどころじゃなくて、その方ほう
が、目的あて なんでしょ。一体、心当てがあるんですか」 「当てはない。・・・・だが、静しずか
御前ごぜ のお頼みがなくても、わしはどうしてももう一度、義経の君へお目にかからねばならぬことがある」 「ま、恐ろしい真剣な顔つきをして」 「そうだろう。わしは思い込んだのだ。そのことへなら、一命を捧ささ
げても惜しくないと」 「ときどき、へんなことへ思い込むあなたの性分は、ちっとも、珍しいとは思いませんよ。── 讃岐国へ流された崇徳すとく
上皇さまの配所へまで、わざわざ命がけで渡って行って、何をして来たかといえば、むかし、おまえの笛を一度聞きたいと仰っしゃったことがあるから、そのお約束を果たしに行った
── という風変わりなあなたですからね」 「ああ、あのころは、世の乱れも、まだ始めだった。しかしこんどは、そんな生やさしい願いとは、事が違う」 「では、どんな願いが、あってですか」 「わしばかりの願いではない、全土の祈りだ。もうもう、再びの戦乱は、どうか避けたい。いや、当面とうめん
のお人へ、してくださるなと、必死場お願いをしてみる気なのだ」 「義経さまへ?」 「そうだ。もしあの君が・・・・ここで、あらゆる辱、無念、困窮を忍ばせ給うて、意地、栄達も打ち捨ててくださるならば、再びの大乱とならずにすむ」 「そうでしょうか」 「むむ。──
鎌倉の府が、一応、どれほどの力を握っても、まだまだ、不平な武族は、たくさんいよう。また、どこのたれよりも、大不平を抱いていらっしゃるのは、後白河の法皇きみ
と、先に退しりぞ けられた多くの公卿大官たちに違いない。──
なんとかして、義経の君に、以前のような兵馬を持たせ、鎌倉を倒して・・・・と、内々いろいろな御画策もあろうかと、案じられる」 「だって、もう四たびも、院宣が出て、国々の者へ、義経さまを、早く追捕ついぶ
せよと、詔命みことのり していらっしゃるではありませんか」 「それは表向き」 「裏もあることなんでしょうか」 「院宣はたびたび発せられたが、お心の底から、武家の幕府を、よろこんでおられるはずは万々ない。ひそかには、義経の君をお支持ささえ
あって、鎌倉と戦わせんと、策しておられるものとわしは思う」 「わかるもんですか。そのような雲の上のことなどが」 「いや、正邪は、べつとして、戦乱が怒るか起こらぬかの鍵かぎ
は、一に懸かか って、義経の君のお立場にある。わしがいうのは、それを指すのだ。かの君きみ
さえ、しの御一生を、世のために、みずから葬ほうむ
り去るほどな大慈悲心と、お怺こら
えの下に、院や武士の使嗾しそう
に乗ることなければ、きっと、戦は見ずにすむ」 なるほど、麻鳥のことばには、そう思い込んだ一念みたいな確信がみえる。 善と信じて、思い立つと、身を捧げても悔いない良人である。蓬よもぎ
は、もう、逆らう愚をやめて、 「あなたのこと、家を出ればまた、便り一つくれないんでしょうが、広沢のこの小屋に細々ほそぼそ
生きている女房子のあることだけは、まさか、忘れやしないでしょうね」 「それやあ、きっと帰って来るさ。かの君きみ
に、お目にかかりさえすれば、わしの用はすむのだから」 「まごまごして、六波羅に捕まったり、女房子へまで、泣きを見せないでくださいよ」 「なんの、あしは少しも、鎌倉どのの不為ふため
を謀はか るわけじゃない。平和の願望と、静しずか
御前ごぜ のお頼みを、果たしてあげたいと念じて、義経の君をお探し申すだけのもの。どこへ出ようと、いい開きは立派につく。・・・・ま、案じないで、当分、寡婦やもめ
になったと思うて、円まどか を相手に暮していておくれ」 「ま。・・・・なんて虫のいい」 蓬は、ちょっと、恨めしげな眼をうるませた。
「── つらい」 と麻鳥も心では妻へ詫わ
びる。だが、自分でも置き替え難い決意にそれはなっていた。やがて、鼓と薬嚢やくのう
を、ひと包みにして背中に負い、広沢の小屋をあとに、彼は旅へ出て行った。 |