〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/31 (木) はつ たの み (二)

医師くすし どの。医師どの。たいへんでございますがな。まだ御存知ではございませぬか」
その日。
麻鳥の家の柴折戸しおりど へ、あわただしく、駆け込んで来たのは、先日、禅尼ぜんに の使いでここへも見えた、あの農家の小旦那こだんな であった。
「── 早朝でござりました。禅尼どののお住居から、急いで来てくれとのこと。何事かと、飛んで参りますると、静さまが、てまえを奥へいざな い ── 鎌倉の召しで、すぐ立つ身、今は何をいうている暇もない、ただこれを、麻鳥どのへ、手渡して もれ、── と仰っしゃるではございませぬか」
「何、何。では、静御前しずかごぜ には、鎌倉へひかれることになったのか。それや、知らなんだ・・・・。今の今まで」
「ご無理ではございませぬ。近所のてまえどもでさえ、余りにも突然なことに、お名残を惜しむ暇もなかったのでございました・・・・。わずかなすきに、静さまからのお言伝ことづ てをうけ、その品とお手紙とを、これへお届けに上がりましたようなわけで」
「では、あわただしいそのお立ちの際に」
「はい、それも、迎えの六波羅衆が、早く出よと、家の外で、がやがや き立てているのもよそに、よほどな、御一心か、お筆を走らせ、そして・・・・この一事さえ、麻鳥どのに頼みおけば心残りはない、と」
「どれ、どれ。お見せください、そのふみ を」
「お手紙に添え、この一品も」
彼は、大事な預り物を、届け終わると、後の話にも、落ち着かず、すぐそそくさと、帰ってしまった。
どんな秘事かと、麻鳥は、彼が去るまでは、それを解かなかったが ── その後で、ひとりひそ かに、机にのせて、開いていた。

  ── 今日のことも、いつかはと、かねて、はべ れば、鎌倉のお召しとて、つゆ、意外ともおそれはべ らず。
  さりながら、
  かりそめならぬちぎ りを宿しまゐらせ、みごもれる女の身には、なん ぼう、彼の君へ告げまゐらせたや、お聞かせしたや、と念ずることか。あはれそのおろか のみは、やみ難なう覚えられて候ふ。
  たのみ参らすは、今世こんぜ 現在、おん許ひとりにこそはべ る。
  何とぞ、きみ の御所在を尋ね、静の身、いづこにあるも、変らじものと、べつの一品をも、あは せて、み手ヘおわたし給はれかし、くれぐれすが りまゐらせての頼みに候ふ
「・・・・無理もない」
妊娠みごも ったことを、あいての男性は何も知らずにいる。── こんなむなしい気持はあるまい。
ひと言、義経へ告げて欲しいと、かの女は言う。走り書きの優しい文字が哀訴している。麻鳥は、うごかされずにいられなかった。
ところで、もう一品の、塗箱は何か。
ふた を払うと、えならぬ薫りが立ち、すぐ眼にはいったのは、舞衣の片袖だった。優雅な小鼓がくるまれていたのである。
鼓の胴に、めい があって、
初音
と、読まれた。
「── 初音」
思わず口のなかで、こだま のように言ってみた。
舞衣の袖といい、小鼓といい、おそらく、相愛のおん仲にとっては、いずれ思いで深いものがあるにちがいない。── わけて、鼓も初音とは、初産の子の呱々ここ を想わすような響きもある。
「おお・・・・」 と、麻鳥はひとり言った。 「これは、なんとかして、お渡ししてあげたいものだ。けれど、いずこにひそ みおわす殿やら、六波羅でさえも、追捕ついぶ の手を焼いているとう の判官の君では」
静の境遇や心根を、察しれば、果たしてやりたい。しかし、頼まれた荷は重過ぎる。
「はて、心あてはなし、つらいことかな」
雲を追う目に似たような戸惑いを顔に、ふと暮れている麻鳥だった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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