〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/30 (水) はつ たの み (一)

医師として、それからの彼は公然に、静母子の家をおりおり見舞った。── ある日は、妊婦によい薬餌 やくじ を持ち、ある日は手ぶらでも、心に心からなものを持って。
そして麻鳥は、静の母へ、そっと、こうも注意しておいた。
しずか懐妊かいにん も、医師の自分ならこそ察しられる程度です。当分、人には秘めておかれた方がおよろしいでしょう。もし六波羅へ知れたら、この家の監視も、一重ひとえかき二重ふたえ にもなり、わけて義経君よしつねぎみ のおんたね とあっては、わざわ いは覿面てきめん いことはありますまい」
と。
しかし、これだけでは、彼の忠言も、禅尼や静の今を、何一つ救う光にはなえい得ない。むしろ途方に暮れている母子を一そう暗澹あんたん とさせてしまうに過ぎないだろう。
で、麻鳥は、半ばはかないたの みと思いながらも、静へ向かっては、
「義経君への、きびしい追捕ついぶ も、月日を待てば、必ず、ゆるやかになりましょう。もともと御兄弟のこと、鎌倉どのとて、やがてはお心もやわらぐに違いない。なべて のあたりのことは、うごかし難い、また、変わるなき鉄則に見えますが、どんな現実というものも、じつは間断なく変っています、変わるなと願っても、推移せずにはおりませぬ。人の境遇も、人お互いの心も」
と、いつまで、今が今のままな悪状況にあるはずもないからと慰め、そして、
「── あれこれと、お悩みの余り、体の御養生を、おろそかになされますな。身二つとおなりあるまでは、われのみのお命ではない。五ツ月六月むつき ともなれば、なおのことです。母胎が美を見れば、胎児にも美を映し、母胎が悲嘆すれば、胎児の性質さが にも不幸なあざしる しましょう。せっかく、義経ぎみのおんたね を宿した女冥加おんなみょうが 、末愉しみに、世へお望みを失わずに」
と、励ましたりした。
ところが、彼の言う “間断なき現実の変化” はさっそくかたち をとって、数日後に、現れて来たが、それは、
── 静母子を、鎌倉へ送りくだ せ。
とある頼朝の しだった。
即日、東嵯峨の小さい家を、荒々しい人馬が取り囲んでいた。そして静母子の身柄を、一たん六波羅ノ庁へらつ し去った。
まもなく、追立おった ての列が、二つの箱輿はこごし の前後について総門を出た。比企ひきの 麻宗の手勢も警固の中に見える。わざと、列は大路の人なかをうた い渡して、ひろくうわさを きながら、やがて海道へくだって行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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