〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/30 (水) にょ たい ちょう (五)

東嵯峨は、遠くもない。大覚寺前を ぎって、西へ、まもなく、
彼処かしこ のお家でございまする」
と、男は、村道の曲りを指さした。
草庵風そうあんふう な小家が見える。そてに似つかわしくない兵が五、六名、茅葺かやぶき の小門の口に立っていた。麻鳥の影を見るやいな、兵たちの眼が、するどく、彼にそそがれ出した。
先に、男が、兵の前へ行って、くどくど、わけを話している態だった。見るからに、貧乏医師の風采ふうさい に違いない。兵たちは、麻鳥の前身とか、堀川との関係などは、皆目知らないようだった。 「── 通れ」 という顔つきをする。いばらかき も、まずは通れた。
磯ノ禅尼と麻鳥とは、初めてである。けれど、静から聞いてはいたのだろう、 「・・・・ようぞ、まあ」 と、禅尼は下へもおかず出迎えた。そして、 「先ごろから、食もほそり、食べても、すぐ物をつき上げてしまいますし、日ましに、 せも見えるなど、どうも、ただならぬ容体なので・・・・」 と、さっそく、一室では、当人に代って、静の容体を語り始める。
「・・・・ともあれ、 ましょう」
「どうぞ、こなたへ」
小さい板橋をかけた向こうの離亭はなれ に、静はいた。
春は浅い。そこのひさし をつぼみの梅花がめぐ っている。内は深く垂れ籠めていて、香木のにお いがほの暗かった。元は妓家だったことなので、鼓やこと の備えはあるが、それらの楽器も、久しく人の指に触れるなく、置き忘れられている形に見える。
静は、寝てもいず、脇息きょうそく から身をすすめて麻鳥を迎えた。堀川では、幾たびか面識もあり、義経が信頼していたこともよく知っていた。
しかし、いわば単なる医師と患者との間でしかなかったのに、相見たとたんに、なぜか卒然そつぜん と、両者の胸に、つき上げていた想いがあった。あやうく、静も涙を垂れ、麻鳥も眼を熱うしてしまいかけた。
「・・・・・」
麻鳥は、いつまで、脈を ようとはしない。ただ対座していた。余りにも、無残なやつ れの持った美しさに、凝視を久しくするのみだった。
「・・・・失礼を」
やがて、ゆと、彼の体が、静のそばへ動いた。ひたと、体を寄せる。
胸をはだけよというのか脈を るのかと、静は、その姿態しな をやや硬めかけた。
すると麻鳥は、かの女の横顔へ、わが顔を少し寄せて、その美しい耳もとへささやいた。
「何もお案じには及びませぬ。・・・・御異状は、俗に言うつわりと申すものです。御妊娠ごにんしん にちがいありません」
静は、顔じゅうに、紅を燃やした。
もしやとは、ひそかに抱いていた自覚だった。母の禅尼も、それとなく言ってはいた。けれど、医師の口から、はっきり、それを診立みた てられて、今さらのように、どきんと、生理の宣告を、女の体にうべなわずにはいられなかった。
よろこびか、恐怖か、かの女の理性は、まだ当惑の域を出きれない。あきらかに、生けるものが、身に宿っている。羞恥しゅうち にもくるまれた大きな動揺に、その生命の芽も、どこかで、衝動をともにしている。
「薬はいりません。ただ、お憂いが禁物です。すがすがと、お胸をひろく、わけて、体の養いを、お心がけなさらねばなりませぬ。・・・・さても、さても」
言いかけて、麻鳥はふと、あとの言葉に、胸がつかえた。世の常の言葉をもってすれば、めでたいと、言うべきところであろうけれど・・・・。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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