〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/29 (火) にょ たい ちょう (四)

客は、素朴な農家の小旦那こだんな
麻鳥の前に、もじもじすわって、
「ついこのお近くまで、用事で参ると申しましたら、禅尼ぜんに どのが、ぜひ立ち寄って、お願い申してくれとの、お言伝ことづ てでござりましてな」
と、一言ごとに、頭を下げて言うのであった。
「それは、御苦労な。どなたか、わしに てくれいと仰っしゃるので」
「はい、はい、たぶんなかなか来てはくださるまいかと、禅尼どのも、とつこうつ、お考えでございましたが」
「御病人とは、そのお人か」
「いえ、禅尼のおむすめ の方なので」
「むすめ
「・・・・へい」 と、急にまた、男は肩をせばめ、外や内を、見まわしながら声をひくめた。
「そ、その、御病人とは、しずか 御前ごぜ でござりまする。何せい、沙汰ある日までと、北条殿からお預り中のお体。むかしの知るべすら、後日を恐れて、立ち寄ってはくれませぬ。── てまえは近くの農家ゆえ、お気の毒なと、まあ朝夕に、畑の物など、そっと、お届け申し上げている者でございますが」
「ありがたい。それは、ようしてくだすったの」
── 聞かぬうちから、予感はしていた。
麻鳥は、たれか代って、使いの百姓に、礼を言わずにいられなかった。
自分でさえも、心には始終ありながら、近づき得ずにいたのである。── 吉野で捕まり、六波羅ノ庁で吟味をうけた後、母の手許に、身柄預けとなっている ── という評判は、隠れもないので、耳にしていた。
けれど、禅尼のその家も、六波羅兵が、日夜、番に付いている。静御前は、閉じ籠ったきり、一度も外へ顔さえ見せたことはないとか。
何かと、耳にするうわさにつけ、ヘタに近づいては、かえって、母子の不為ふため にあろう。自分とても、六波羅の注意人物 ── と、さし控えていたところだったのだ。
「伺いましょう。お連れ下さい」
麻鳥が、さっそく、座を立つと、
「えっ、お越しくださいまするか」
こう、たやすくとは、使いの男も、意外だったらしく、よろこびまろ んで、先に柴折戸しおりど の外へ出て待った。
蓬は、聞いていたらしく、
「いいんですか。お出かけになっても」
と、六波羅の思わくを、ひどく恐れるもののような、不安をこめて、
「このうえに、もしもの災難でもかかったら、どうするんです。わたくしも生きてはいられません。お断りしたって、いいではありませんか」
「そんなことは出来ないよ」
「あなたに言えないなら、わたくしがお使いの者へ、断ってあげますから」
「よけいな差し出口をするでない。ほかのことでは行けないが、わしは医師だ。医師にはどんな関門もない」
「でも、、六波羅ノ庁が、邪推して、お疑いをかけまいものでもないでしょう」
「かまわぬ。医の大道を行くぶんには、こわ いものは、どこにもない。ひかれても、立派に庁でわしは言えよう。心配は無用だよ。お前が心配顔すると、ごらん、まどか までが、あんな悲しそうな顔をする。── 円、おとなしく、お留守をしているのだぞ」
麻鳥は、みずから薬籠やくろう を手に、待たせた男を、先に立てて、柴折しおり を出た。蓬が不安そうな眼で見送っているのにひきかえ、麻鳥の方は、いそいそした足どりにさえ見える。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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