〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/29 (火) にょ たい ちょう (三)

「まあ、そうけん もほろろに、お怒りではない。おまえの方が、一応たれものいう道理だがね。けれど、性分なんだ、わいの思いは。よこ ── あいにく、保元、平治、治承、養和、寿永という稀有けう な時代に大人となって、この地上にともども生きて来てしまったもんだから、自分だけは悪因も作っていない、罪もないと、ひとり超然ちょうぜん といい子のなっていられない気持なんだよ。といって、わしになんのつぐな いも世に出来ないこともよく分かっているのだがね。・・・・祈りさ、ああただ、祈りさ、わしの思いは」
「変わってますよ、ななたという人は。女房子のさち は、ちっとも祈りはしないで」
「そんなことはない。わしとて親だ、おまえの良人おっと だ。だがね正直、この間じゅうから、わしは、人間というものが、ほとほといやになりかけて、困っている。すこし気鬱症きうつかか った気味だ。なお さなければいけないと思っている」
「どうしてですか」
「壇ノ浦以後、世の成り行きが、こうとは、わしも思わなかった。世の物を、焼きに焼き、人のかばね を積みに積み、あれほどな修羅しゅら も、これでまあ、ほんとの泰平にかえ るなら、ぜひもない犠牲かと、眼をつぶって念じていたら、なんのことはない、半年も ちはしなかった・・・・」
「だって、わたくしたちのせいではない」
「せいではなくても、禍はかかって来る。無力な民の災難は、名のある者の没落や討死よりも、どれほど多いか。── 嘆いても嘆き足りぬことだが、鎌倉どのが今のようでは、再び何が起こるやら、空恐ろしい。人間がみなけもの じみて見え、子の世の中までいやになる」
「まだ、戦いは、続くんですか」
「一に判官どののお胸だが、いかに忍従なお方でも、余りに辱じしめられ、追いつめられれば、人間、生きるために、どう猛獣に一変しないものではない。── いや、こんな始末では、鎌倉の府自体も、長くは保ついまい。せっかくな勝者の府も、民の望みにこたえず、かえって、おご る者と驕る者の争いが、みずからの鎌倉を、猜疑さいぎざん と陰謀の府にしてしまわなければ倖せだが」
古女房のありがたさである。人にはもらせぬおんな鬱気うつき も、蓬なればこそ、おもしろくない顔はしていながらも、聞いてはくれる。── と麻鳥が気がついて、苦笑の下に、口をつぐんだ時だった。
表の柴折戸しおりど の口で、しきりに、
医師くすし阿部麻鳥あべのあさとり どのと仰っしゃるのは、こちら様でございましょうかの。── 東嵯峨ひがしさが に住まうお知る の御病人から、頼まれて来た近所の男でござりまするが」
と、おとずれる客の声がしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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